![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46031998/rectangle_large_type_2_87f2b2e56dc0666f79378cb6e75e79fc.jpg?width=1200)
日記を始めます
可処分時間が死ぬほど多いので日記を書こうと思う
芥川賞作家の羽田圭介先生がYouTubeチャンネルで紹介していた「すべて忘れてしまうから」を読んだ。
著者はたくさんの人と関わり自分の数倍濃い人生を歩んでる気がする
外を出てぼんやり歩いていると目的地がある人達の群れにすれ違う。彼らをベルトコンベアに流される商品のようだと思った。
目に映るそれは目的があって手段があって様々な経験や時間を過ごしているに違いない。
そうすると私はベルトコンベアにも乗れない欠品なんじゃないか、と思えてくる
振り返ると私は「一生懸命」という状態になったことはない気がする。
「一生懸命のフリ」がほとんどだ。
大体「一生懸命」ってなんだ。
「一生懸命やった」という状態には血のにじむような努力や葛藤や絶体絶命のドラマがつきものだ。
努力というのは本人以外の人物が「努力」と認めないと努力と呼べないらしい
三者面談でとにかくいい内申点が欲しかった私は担任に「頑張りました!!」と懇願したことがある。
「頑張ったかどうか評価するのは先生だから。」と担任に言われた。
口から出たのは事実だけなのに今も思い出すのでおそらく当時ショックだったんだろう。
人生はコマ送りな気がする。
抱えている問題だけでコマを消費出来ない。
叱って数分も経っていないのにケロッと笑っている後輩を見て友達は「よくあんなに笑ってられるな」とイヤミをこぼしたことがある。
叱られてきたことだけをずっと見つめていられるほど後輩は暇じゃないのだろう。
そんな友達もそんな怒りを忘れて数分後にはケロッと笑っていた。
こんなものだと思う。
こんなものだと思ってしまうから私はいつまでも「一生懸命」になれずに「欠品だ」と自信を嘆いているんだろう
。「一生懸命」なヤツはきっと「努力」と後に評価されるような行動をしているんだろう。
今日はこれからバイトなので「一生懸命のフリ」してきます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?