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焚き火について言いたいこと

いくつかのキャンプ系SNSに入っているんだけど、善良な皆様の「焚き火で癒やされました」「煙分不足なので焚き火をしにキャンプしてきました」なんて投稿を見ると一言物申したくなる。
ならば一言物申せばいいんだけれど、根が小心な小市民、一斉砲火をは浴びたくないし叩かれたくないのでずっと堪えている。
「王様の耳はロバの耳」じゃないけど、このスペースを個人的なガス抜きの場にさせてもらう。それは焚き火のことだ。

焚き火は熱源

「今の子」とか「都会育ちの人」と言うと語弊があるかもしれんけど、私のような「昔育ちの田舎の人」と比べると火との付き合いがずっと希薄なんだと思う。

暖房にエアコンを使うなんてことは考えもつかなかったし、電気こたつが現れる前は練炭や豆炭は普通に使っていたし、風呂だってガスや石油じゃなくて薪や石炭が燃料だった。風呂炊きも小学生の頃から普通に手伝わされていた。
母ちゃんに「風呂炊いてきて!」と命令されると「名犬ラッシー始まるのに...」とぶつくさ言いながらも、新聞紙から割木、細木と火を育てて石炭を威勢よく燃やして風呂炊きをしていた。

小学校の暖房だって石炭やコークスのダルマストーブで、当番は火付けから最後の灰の後始末まで小学生がやってたんだから今考えるとすごいと思う。
広場で焚き火も普通にやって温まっていたし、火はすごく身近なものだった。
なんか今考えるとすごいことのよう思うけど、当時はぜんぜん普通のことだった。だから「焚き火に挑戦!」「来週のキャンプのために練習してきました」なんて記事を見ると、焚き火なんて挑戦!と思い切ってするもんじゃないじゃろ、練習してまでする大それたものじゃないじゃろ、と思うのだ。

火の怖さも有り難さも刷り込まれていたんだと思う。大人が火を扱うのに「かっこいいなー」と憧れて、火の扱いは自然に身に付いていったんだと思う。風呂炊きで石炭になかなか火が移らず困った時も「しょーがねーなー。ちゃんと見とけ!」父ちゃんの手順を見て覚えるだけで手取り足取り親切丁寧な指導は受けなかったけど、その分「覚えなきゃ」と真剣に火と向き合っていたんだと思う。

火は遊びのツールじゃないことは子供心でもわかっていたし、「火遊びするとおねしょするぞ」の脅し文句は何度聞いたかわからない。だから数十年たった今でも火は熱源のひとつとしか定義できないし、火で癒やされるという感覚も正直わからない。

キャンプに行けば焚き火はするけど熱源としてか考えてないから必要量しか燃やさないし、真っ白な灰になるまで見守るから火消し壺も使わない。翌日、燃えるゴミのポリ袋にサラサラっと入れるだけだ。

焚き火は熱源であることを自覚して、使う分しか燃やさなければ、来たときよりも美しくにも直結するし、焚き逃げも少なくなるんじゃないかな。

なんだか最近の焚き火界隈を見ると、いい年した大人が新しいおもちゃを手に入れてはしゃいでいるようにしか見えない。
風の強い日の焚き火をあれこれ考える前に、燃え広がった時に消す消化バケツの準備をする前に、火は遊び道具でもないし、癒やしの道具でもないことを自覚するのが大事なんじゃないかなと思う。

たかが焚火の火で「癒やされるなー」と心底思っているアナタ、放火魔予備軍ですよ。
炎で恍惚としているアナタ、八百屋お七ですか?。

病んだ心は癒やしなんかで誤魔化さず、精神科でちゃんと治療したほうがいいと思いますよ。

あー、スッキリした。

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