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生きる意味をくっきりさせる仕事

こんにちは。Jの先生/藍澤誠です。

いつからかわからないけれど、意識的であれ無意識であれ、考えなしに「新しい生活様式」に順応しようとし、「少しでもリスクを回避」しようとしているチュエーションになってしまったとき、私はその都度、いろいろな種類の悲しさを感じていました。日常のいろいろな場面で軽く落ち込む。目にした景色に気が滅入る。気持ちがずっと晴れないのです。仕事は正直したくなかったし、体もそんなに動かしたくない。

何に自分はひっかかっているんだ? 

さっきお風呂でやっと気づきました。「そこまでしてリスクを回避しようとする?」と自問自答するときの「そこまで」の矢印を、「清潔であること」「義務を果たすこと」にちょっとでも向けているから虚しいんだって。

矢印を向けるべき場所を間違えていた。

ありとあらゆる(おそらくは)実効性の低いことや、これまで個人的に気にも留めなかった些細なさまざまなことを、「やらないよりはずっとマシなこと」「これからの生活には必要なこと」「誰かのために少しでもなっていること」として、暗い気分になるとかは二の次で、正しいこととして取り組み続けてしまう

あるいは「これは意味があるよ、少しかもしれないけど」と自分に、あるいは周囲にいる人に言い聞かせながらやる。その行為を正当化してくれる誰かが提供してくれるデータや証拠を探しに行く。その行為を否定する人に反感を抱いたり、やらない人に不快感を得たり、攻撃をしたりする・・・そんな気持ちがわかったりする

これは良くなさすぎる。

私は小中高を対象としている塾を20年間経営していますが、東京都から休業要請が出る前の休校期間(2020年3月あたま〜4月の第2週まで)に、「感染防止のための安全な取り組み」みたいなことはしていませんでした。そもそもマスクも除菌グッズも売っていませんでした。

そんな状況でも口では「安全に配慮して」みたいなことは言えちゃうんだな、とある日、気付きました。あいまいな記憶ですが、親向けのメール・LINEの冒頭か末尾に、

安全に配慮して

みたいな表現を安易に付け加えてしまった気がします。何をどのように配慮していたのか思い出せませんが、ちょっと何かに気をつけていたのでしょう。それを「意味があること」のように伝えればいいだけですから、口で言うのは簡単です。

そして、安全という観点だけに限定すれば、「授業をしない」「会わない」のが一番安全ですし、実際、緊急事態宣言が出て、都から休業要請がでたとき、対面授業をやめたのですが、会わない間は、生徒を感染させるリスクはゼロでした。

いえ、正確に言えばゼロではなく、数回、用事があって、会いにきてくれた子や親がいました。その頃には、人に会わなすぎて、会うと言うことが特別なこと、ちょっと怖いことになっていました。緊急事態を乗り切るため、「自分は陽性者だから慎重に暮らすべき」という仮の前提で暮らしていたので、実母には合わなかったし、極力買い物も控えて、お財布を出すときに、「久しぶり!」と感じるような毎日を送っていました。

だから休業期間、たまたま人と話せた時は、とても楽しいし、嬉しいんだけれど、いい意味でも悪い意味でもドキドキするというか、検査できていない同士が会って話をするという、手放しで喜べない不安な状況というか。せっかく「会いたい」と言って来てくれた塾の子に「いいよ! 会おう」と即答できなかったし、迷った自分のつらさを「それは仕方がないよね」「会いたいという方が配慮が足りないよね」「お互いのためにあまり合わない方がベストだよ」という意見を受けて、自分の感情を落ち着かせてみたり反省してみたり。ひとまず、あの休業期間、自分の思考がかなり混乱したわけだけど、この迷いまくったブレブレの感覚だけはのちのために、ちゃんと覚えておこうと思ったので、ここに書き記しておきます。

そして2カ月半の休みを経て、2020年7月。つい先日、塾をこわごわ再スタートしました。形式上のことでいうと、以前にはなかった除菌グッズもありますし、以前は閉めていた教室のドアをずっと開けています。マスクの備蓄もしましたし、けっこうなお金と時間をかけて生徒のテーブルを増やしました。さらには学習のフロアも増設して、蜜を多少防ぐこともできています。

でも、こんなのは正直言って「まったくぜんぜん」たいしたことない。感染防止対策ができなかった3月下旬・4月頭と比較して、安全になった気はぜんぜんしない

それなのに・・・リスクをものすごく減らすことができた気があまりしないくせに、ちょっといいことをした気分があり、、、でもそのいい気分は本質ではないし、そもそもリフォームとか備蓄とかそういうのはリスクのためにやったわけではなく、むしろみんなに頻度高く集まってもらい、前より楽しんでもらおうというイメージがありました。みんなに集まって欲しい、居心地のいいずっといられる大好きな場所、大人になって思い出して、あそこは楽しかったな、あんな場所を作りたいなと思える空間にしたいんだけれど、世間の風潮やリスクを意識しとたん、ここには集まって欲しくないというか

たまたま教室を拡張はしたけれど、それは蜜を避けるためではなかったんです、実はというか。結果的に、あるいは運用を工夫すれば、蜜を避けることに使える側面はあるけれど、面白い場所を作りたい、従来の意味での幸せな場所を作りたいというのが目的だったのに、そっちの目的の方を前面に出しきれない自分がいました。

ひとまずはっきり言えるのは、教室のリフォームを、たとえば仮に「広告」とか「サイト」「note」でアピールして、「施設の充実度」「安全性」をウリにするのは、ものすごく変だと思う。私はまったくリスクを減らせている感がないので(そもそも授業では声をずっと出して話すので)、この部分に胸をはったら、実情とも自分自身の「ちょっと変だよ」という感覚ともズレた発言になってしまう。

この「ちょっと変だよ」をさらに説明すると、ミュージシャンが、ライブの内容ではなく、施設の充実度と安全性ばかりをアピールして、作曲も作詞も練習もしないで、さあ、活動開始って言っても変というか、ファンは悲しいですよね。私の場合、施設の管理者であると同時に、授業をする側でもある。「でもある」というか、根本的に授業をする側であることからスタートしないと。パフォーマンスをする側が、パフォーマンス以外のところばかりに胸を張ってどうする・・・

政府が求める「新しい生活様式」に順応するためにやっていることでもない。お墨付きをもらいたいわけでもない。清潔な場を作ることは、とても大切なことだし、意味ないことではない。でも本質ではないことは明らかだ


きれいな場所で黙って勉強して、安全に帰る。


それを求められているわけではないと思います。
きれいな場所をなぜ、作りたいか。
何を教えたいか。
対面してまで伝えたいものは何か。

その何かは、私の場合、あれこれ考えた結果、

生きる意味の見出し方

である気がします。

なぜ今回の感染症だけ、圧倒的な感じで社会に打撃を与えたのか、どの部分が日本において過剰に響いてしまったのか分析・把握しきれていませんが、とにかくいきなり従来の価値観が揺らいでしまい、「新しい価値観」を持たなくてはいけなくなった。生きる意味が見失われた。子供はそうでもないのかもしれないけれど、社会を動かしている大人が揺らいでしまったから、結果として子供も新しい価値観を持たなくてはいけなくなった。

新しい価値観

従来は、「社会の価値観」は、基本的に「負を含んだ部分」があり、「改善すべき強固な対象」であり、それを乗り越えるために自分もあれこれ試行錯誤してきたような気がするけれど(従来の教育のあり方と対峙するとか)、そういうカウンター的というか、対決構造ではなく、私が目指す「新しい価値観」というのは、単純にシンプルに、「自分はこのために生きている」という実感を持つことから始め、そのためにはどうした方がいいかな、という改善方法を積み重ねていくことで、新しい価値観を練り上げていきたい。先生という役割でいえば、みんなの願望をくっきりさせる方法を提示する

当たり前すぎるのかもしれないけれど、好きなことを追求できる社会であって欲しい。個人の自由な思いが先で、社会がそれを支える。社会が先で、個人が後ではなく。

「このために生きている」という個人の価値追求がベースにある。明るい気持ちでい続ける。そうした心持ちが、免疫の安定とか、安全な社会作りに結果としてつながるのかもしれないけれど、そういうところに根拠を求めずに、「死なない」ことを矢印にしないで、「生きている幸運」を味わう。他者の「生きている幸運」を喜ぶ

今日も生きている。この命をあれに使いたい。これに使いたい。


いろんな人がいる。そんな多様他種の希望を、新しいルールで抑えるのではなく、可能性を広げるよう社会(私の場合は仕事場)を機能させていく。頭の中をアップデートしていく。

シンプルに、命(時間・エネルギー・記憶・感情)を注ぐ対象を見つけ、そこに使う。ただ、楽しむ。だれかの命の営みを応援する。一緒に命を合わせる。

ただ楽しむだけって、赤ちゃんにとってはすごく簡単なことでも、大人にはなかなかできない。でも逆に赤ちゃんは、社会の庇護下でなくなってしまったら、一瞬で死んでしまう。

人間は強いのか弱いのかわからない。個人で生きた方がいいのか群れた方がいいのかもわからない。先人がたくさん言って来たことだけれど、長期的な視点で、人生や社会をデザインするんだけれど、それは今のためでもある。近くも見るし遠くも見る。今とはるか遠くが結びつく。個人レベルで言えば、今と終わりである死が結びついている状態を当たり前と考えられた時、次の一手がくっきりするのかな、と予測しています。

自分の生きる意味と、みんなの生きる意味を見据えたいです。意味がないかもしれないけれど、すこしでもマシにしたいというまっとうな意志とエネルギーは、死なないことではなく、生きたい理由の発見とその持続方法の創出に向けることに決めました。

ということで、今日からまた改めて仕事や表現をしていきたいと思います。生きる意味をくっきりさせる仕事を目指します。










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