見出し画像

わたしのハーゲンダッツが食べられた話

わたしのハーゲンダッツが食べられた。

その頃のわたしは、良く言えば倹約家、悪く言えばかなりのドケチな人間だった。コンビニのアルバイトをして貯めたアルバイト代で買ったハーゲンダッツ。しかも期間限定品。当時の私は期間限定のハーゲンダッツが出るたび、1種類ずつ手に入れ冷凍庫にコレクションしていた。一個300円弱。そのとき高校生だった私にとってはかなり高い。そしてコレクションを定期的に眺めていつか頑張ったためのご褒美としてそこに置いていた。

するとある日、突然無くなっていた。いつもの場所に保管していたわたしのハーゲンダッツ。家の者によって食べられていたのだ、何も言われずに。勝手に。

家族にとってはたかがアイスなのかもしれないが、わたしにとってはされどアイスなのである。わたしが頑張って自分で稼いで貯めたお金で買ったハーゲンダッツ。もう既にわたしにとって、高くておいしいだけのアイスという存在では無い。スーパーやコンビニに並んでいるハーゲンダッツよりも希少価値が高いアイスなのである。でもやっぱり人は人なわけでそんなこと知ったこっちゃないみたい。アイスはアイスなのである。いつも食べるアイスよりもおいしいアイスなのである。難しいね。そこに込められた想いなんて知らないみたい。興味もないらしい。食べ物は食べ物なのである。残酷だと思う。しかも消費するものなので無くなってしまう。誰かに買ってもらえばいい、また同じ種類を買えばいいという問題ではない。もう二度と同じものは手に入らないのだ。

"モノ"に対する想いというのは人それぞれなのだ。丁寧に扱った方がいいのかもしれない。それが例えば破れた本の帯だとしても。誰かにとってはそれは"ゴミ"という存在に代わるのかもしれない。でもその本を買った本人にとっては、大好きな人が関わっている帯なのかもしれない。何かの拍子で敗れたからと言って価値がゼロになることはないのだ。それほど大切に扱っていたものを自分の知らぬ間に捨てられてしまったらたまったもんじゃない。

つまり何が言いたいのかというと人の"モノ"はその人しか知らない特別な想いがある。喜怒哀楽いろんなモノ。私らは生きていくためにその誰かの"モノ"に対する想いを汲む必要があるときがあるかもしれない。なんかそういうときが来た時にわたしはその想いを汲めたらいいな、と思って今日を生きていこうと思う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?