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「エコール」のイノセンス

 長年見たいと思っていた、「エコール」のDVDをレンタルした。ひどくフェティッシュな作りなのに、全く不快感のない、不思議な映画だった。
 少女らの学校は、川の流れる森の奥にある。寮の周囲は高い塀で囲まれ、完全に閉鎖されている。建物と建物の間は、うねった道で繋がれ、辺りを点々と街灯が照らしている。静止した空間が、ポール・デルヴォーの絵を彷彿とさせる。
 ある日、学校に木の箱が届く。星型の彫られたそれは、棺を思わせる。中からは、あどけない少女が現れる。細い手足、平らな胸。まだ女として認識されない、未分化の存在だ。彼女らは、単独行動をしない。同じ制服を着、リボンを結び、幼い自我をも共有しているかのようだ。
 少女たちは、決められたカリキュラムの中で、それぞれの役割に服従している。外の世界を、誰も知らない。最上級学年以外は、「選ばれた」少女たちだけが、学校の外へ出ることができる。彼女らに、選択権はないのだ。ただ、選別される側としてだけ存在する。あるいは、見られるものとして。
 柱時計の振子の後ろに、地下へと続く通路がある。通路の先には、劇場がある。観客は、学校の維持費を支払っている。そこでも、少女たちに選択権はない。逃げようとしても制止され、闇に落ちる観客席の前で踊り続ける。
徹底した、主体の排除。そこには、死の匂いがする。死の気配は、逆に生を思わせる。画面には常に、抑制されたエロスが漂っている。少女はいつも、死=棺の中から現れる。
 逃げようとした者は、罰を受ける。敷地を流れる川に溺れ、あるいは、塀を乗り越えて行方不明になる。自由は、外の世界は、禁忌なのだ。
 主体を奪われ、客体としてのみ存在する少女。彼女らに意志はなく、つまるところ欲望もない。それは、限りなく無垢な存在として、私たちの眼に映る。
 彼女らが主体を獲得するのは、外界へ出る時だ。ラスト、最終学年の少女たちは、疾走する列車に乗り、外の世界へと連れ去られる。ほの暗い森の学校から、陽光あふれる都市へ。そして、迸る噴水ごしに、少年と出会う。彼女らが、主体を獲得する瞬間だ。彼はおそらく、初めての他者なのだろう。その頃、森の学校には、新しい棺が送り込まれ、蓋を開け新顔の少女が現れている。
 「エコール」に描かれている少女は、眠る蛹である。幼年期から羽化への、刹那だけを切り取って、うっすらと輝く。ただ、無垢。だから、フェティッシュな描写にも、なぜか不快感はない。ほのかに毒があっても、透明さを失わない、不思議な映画だった。

#映画

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