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咲かざる者たちよ(第二話)

〜第二話〜

 自宅での寂しさや、毎晩怒号とともに押しかけて来る男たちへの恐怖をかき消すように、今日も喜多山は小学校ではすれ違う者一人ひとりに話しかけ、ふざけて笑わせてみせた。
「やっぱり君は傑作だ、喜多山くん。また明日もこっちのクラスにも来てくれよな。ああ、笑った。笑ったよ。もし君が僕の弟なら、家で勉強なんて忘れてずっと笑っているだろう。そう、成績だってどんどん下がっていくに違いない。ああ、笑った。笑った。」と言う上級生の笑い顔を見ながら喜多山は、ふと「もし君が僕の弟なら」という言葉に引っかかった。あの上級生の言葉通り、もし彼の家に帰り、彼とずっと笑い合えたらどれほど幸福な毎日が訪れるだろうか。夕方まで近所の公園に集まり、暗くなるまで友達同士で野球をする。またある日は塾に通ったり、水泳教室に通ったりする。そんな当たり前の毎日が過ごせたらどれほど嬉しいことかと考えた。喜多山は突然現実に引き戻され、すぐに母のことを思い出した。もし彼の家族ならなどという妄想を一瞬でもしてしまったことに対する母への罪悪感から、自己嫌悪をし、またすぐに喜多山は別のクラスへ走った。今日の母の帰りはいつになるのだろうか、と不意に込み上げてきた寂しさを、力ずくで抑え込むように、できる限り大きい足音を立ててばたばたと走った。

 午後六時まであと二十分。喜多山は自宅前で汚い木製バットで素振りしながら、母の帰りを静かに待ちわびた。今日も自宅の真上を通過する電車の音は寂しさを招いた。古びた線路とその上を走る重厚な車輪による鉄の轟音は、通り過ぎた後の静寂を一層際立たせた。
 午後六時が訪れ、喜多山は母の帰りを諦めて家へ入り、いつものように鍵や窓やカーテンを閉めながら部屋を巡った。電気を消そうとしたその瞬間、以前母から絶対に開けるなと警告されている桜の木でできた洋箪笥が、渋い木目を見せつけてきた。喜多山は開けてみようかと一瞬考えた。しかし喜多山は、「もし開けた瞬間に母が帰ってきたら」と考えると母に対する罪悪感の予感がしたためすぐにそれ以上考えることを止めた。また、それと同時に、「帰って来て欲しい」という強い思いが、喜多山を急いでその場から離れさせた。
 その日は一人でクローゼットに身を隠した。一人でいるクローゼットの中はとても広く感じた。しかし母と二人でぎゅうぎゅうに入っている時よりも、なぜかどの姿勢にも違和感や体の疲れを覚え、しっくりこなかった。喜多山は、その不安定な心情を反映するかのように、体勢を何度も変えながら、時の経過にため息をついていた。静寂と漆黒が渦巻く世界にひとり閉じ籠っていると、まるで世界中の人々が喜多山の存在を忘れ、喜多山を一人残して皆地球の裏側にでも移動してしまったような、取り残された感覚になっていたため、取り立て屋の砂利を踏む足音や怒鳴り声が聞こえると安心すら覚えた。

 美味しそうな香りに目を覚ました。午前一時四十五分。クローゼットにいたはずの喜多山はベッドで横になっていた。今日は寝たフリをせずにすぐに起き、そこから台所にいる母の方を見た。いつも通りの優しい母の姿があった。しかしいつもと様子が違っていた。キッチンの青白い照明に照らされ浮かび上がったその母の顔をよく見ると、何やら独り言のようなものをぶつぶつと呟き、その綺麗な鼻筋と眉間の間には憎しみを秘めた皺が形成されていた。喜多山はなにか見てはいけないものを見た気分になり、音を立てぬようゆっくりと体を再び横たえ、寝たフリをした。目を開けたままベッドで横になった喜多山は、夕方に見た洋箪笥の存在を思い出していた。
 三十分も経たぬ内に、母は晩御飯を作り終え、喜多山を起こした。そこにはいつも通りの優しくて美しい母の表情があった。喜多山は見間違いだったんだと自分自身に言い聞かせ、胸を撫で下ろした。
 夜更けの闇に包まれた居間にて、正面に座り鍋を食べる母を見て、喜多山はふと「お母さんは何の仕事してるの?」と聞いてみた。その瞬間母の表情に焦りが浮かび、はっとしたように見えたが、「難しいお仕事よ。今はそんなこと気にする必要はありませんよ。今はご飯を食べましょうよ。」と流すように優しく答えた。


 ある日、母と近くのスーパーに買い物に行った。喜多山は母と出かけるのが大好きだった。喜多山は、母と、今日のお鍋には何を入れようかなど、たわいもない話しをし、母の履く真っ赤なヒールから響くコツコツという音を聞きながら、ゆっくりゆっくりと歩くこの時間が永遠に続いてはくれないものかと何度も願った。しかし、そんな穏やかで温かい時間に突如として不穏な陰りが差し込んだ。会計レジに並び、母が支払いをするため財布を出そうとした瞬間、喜多山の視線の高さで異様な「ぞりぞり」という音が耳に飛び込んできた。その音は、母の、何気なく袖を捲り掻いた腕によるものだった。その腕は、母の優雅で美しい肌とは異なり、まるで鰐あるいは蜥蜴のようにざらざらとした質感を帯び、ぼんやりと紫に変色した湿疹の痕に一段と濃く浮かび上がった無数の小さな穴は、散りばめられた砂粒のようであった。すぐにそれは見えなくなったが、その音はやけに鮮明に喜多山の耳にこびりついた。
 帰り道、母は路上に構えた烏賊焼きの屋台を見て喜んだ様子で、少し跳ねて近寄った。
「烏賊焼き!お母さん、昔よく烏賊焼き食べたんよ!まあ懐かしい。ほら、食べましょう。」
 喜多山は喜ぶ母の表情が大好きだった。焼き上がるまでの短い間、屋台の中年男性とのやりとりや母の支払いの仕草に、喜多山は静かに視線を注いでいた。しかし、再び母の腕が露わになることはなかった。


・プロローグ

・第一話


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