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フェミニズムにおける「一人一派」の意味について考える【考えるシリーズ】

まいど。皆にとっての何某か、あいつです。

誰が言い出したのか分からないが、言葉のみが一人歩きして多くの人に使われるようになるジャーゴンはたくさんありますよね。

今回はそんな言葉のひとつ「一人一派」について考えていこうと思います。

実はあいつ自身も以前から、Twitterでよく見かける「一人一派」に対して如何ともしがたいものを感じていたんです。
「その通りだな」と肯定できる部分もありながら、「でもその使い方はおかしくない?」、と。
そんな折、YouTubeでもSNSのフェミニズム界隈が取り沙汰されるようになってきたこともあって、この機会に改めて言語化しようと思った次第です。
かなり長い記事になってしまいましたが、何卒最後まで読んでいただければと思います。

いちおうこの「一人一派」問題については、あいつなりにひとつの結論には達したつもりです。
なのでフェミニスト、反フェミニスト、非フェミニストの全ての方にとってこのnoteがひとつの里程標になればこれほど嬉しいことはありません。

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はじめに

この言葉は主にTwitterなどSNS上で見かけることが多い。そして必ずと言っていいほど「フェミニズムは」という枕詞がつけられて、ある種の格率のような扱いを受け始めた。かくして、以下のような言説が形作られることとなる。

「フェミニズムは一人一派である」

しかし一方で、その言葉の意味に関しては論議の絶えないところでもある。例えば以下のツイートでは、「一人一派」の意味の曖昧さに対する疑義が呈されている。
そしてそのような意見にいいねが多く集まることは、同じ疑問をもっている人が多いということの証左でもあるのではないか。

こういった現況から、「フェミニズムは一人一派」という言葉の意味を今一度確認しておくことは有意義であると思われる。
そのため今回は、その言葉が何を表しているかを読み解いていく。
もちろん本稿における解釈が最初の提唱者の意図とは必ずしも一致しないであろうことは付言しておきたい。

Ⅰ.「一人一派」が指し示すもの

「フェミニズムは一人一派の思想だ」

改めて眺めてみると短く簡潔な主張である。
だがいささか抽象的な言葉でもあるため、まず手始めに意味論的な解釈から行っていくことにしよう。
「一派」の意味について辞書をひいて調べてみる。

いっぱ[一派]
①(学芸・宗旨などの)一つの流派。「ーーを立てる」
②なかま。

『広辞林 第五版』三省堂

上記②は「医局長一派」・「彼ら一派」のように、単に仲間集団を形容する際の語用である。しかし「フェミニズムは一人一派」と言う場合に「一人」が意味するのは何かしらの集団ではなく、一人の個人を指していることは明らかであろう。
つまり「フェミニズムは一人一派」を解釈するにあたっては、上記の「②なかま。」という意味だと解釈するのは妥当でないと考えられる。

一方①であるが、こちらは「日蓮宗一致派」や「和泉流山脇派」など、ある考え方を共有した流派を指す時に用いる。
つまり①は単に仲間集団を指すのではなく、思想の方向性というニュアンスを含んでいることがわかる。
そして重要なのは、①の場合は必ずしも集団を指すとは限らないということだ。たとえば『五輪の書』における二天一流のように、開祖一人しか用いていない場合であっても流派と呼ぶ例は多々ある。
ここから「一人一派」の「一派」は、上記①のように「思想的な方向性を備えた考え方のひとつ」を指すと解釈できるだろう。

以上の側面を踏まえて「フェミニズムは一人一派」を解釈するなら、「同じフェミニズムという基本的な考え方を共有していても、各々の主張する意見は人それぞれ多種多様なものになる」という具合になる。
もったいぶって解釈してきたが、おそらく「一人一派」という言葉から読者諸賢が素朴に感じとる意味とそこまでかけ離れてはいないと思う。

現在Twitterでフェミニストを自称している人達がしている語用は別として(本稿Ⅲ節にて後述)、多くの人は最初に「フェミニズムは一人一派」という言葉を見た時、前段のような意味と解釈していたのではないだろうか。

実際、フェミニズムはその性質上あらゆる個人がそれぞれ異なる意見をもっていても不思議ではないし、そうみなして差し支えない思想である。
そう考えると「フェミニズムは一人一派」という主張はおおむね的を得ているものだといえよう。

では一体なぜフェミニズムは「一人一派」の思想だといえるのか。次節ではその理由について解説していく。

Ⅱ.フェミニズムはなぜ「一人一派」といえるか

前節にて「フェミニズムはその性質上あらゆる個人がそれぞれ異なる意見をもっていても不思議ではないし、そうみなして差し支えない思想」であると述べた。

なぜフェミニズムは、極端な相対主義ともいえるこのような実態を伴っているのか。その理由としては、フェミニズムの次のような性質が影響している。

  1. フェミニズムが理論という思弁的側面で完結するものではなく、現実にはたらきかける運動・活動という応用実践の側面からもアプローチする思想であること。

  2. 性に関する問題が人間の活動領域のほぼ全てにまたがっているために、フェミニズムの扱うパースペクティブがおそろしく広範な射程をもつこと。

  3. その思想史的特徴から、歴史的にフェミニズムは質的な個人体験や内的観念、そしてそれを語っていく個人のナラティブを重視すること。

本稿ではさしあたって以上の三点から、フェミニズムが一人一派たる思想であるといえる素因を探っていくことにしよう。


1.フェミニズムが理論という思弁的側面で完結するものではなく、現実にはたらきかける運動・活動という応用実践の側面からもアプローチする思想であること。

1848年7月19日、NYのセネカフォールズにて初の「女性の権利大会」が開催された

これはもちろん、西欧における最初期のフェミニズムが公娼制度廃止や母性保護、婦人参政権獲得といった女性の権利向上のための具体的な社会運動から始まったことが大きく関係している。

そもそも女性解放運動として誕生したフェミニズムは「運動」「行動」であったが、1970年以降理論化の努力が積み重ねられて、「理論」「思想」として研究の対象ともなるようになった。単なる女性問題にとどまらず、人間、社会、歴史などの読解格子としても役立つようになる。それらの理論・思想は現実の女性の状況に変化をもたらすという形で循環する。

支倉 寿子(2003)「平等か差異か」/『概説 フェミニズム思想史』ミネルヴァ書房

上の引用からも分かる通りフェミニズムはその黎明期において実際的な運動・活動に端を発し、その中で様々な理論が萌芽していったという背景をもつ。
そのためフェミニズムは今でも現実社会に対する運動・活動という性格を色濃く残しているし、大多数の人にとってのフェミニズムやフェミニストのイメージはおそらく「女性問題に関して色々と社会運動をしているグループ」といったものであろう。(このイメージ形成には、日本のウーマン・リブ活動のメディアによるとりあげ方も大きく影響しているが、本稿ではとても書ききれないため割愛。)

確かに昨今におけるSNS内でのフェミニズムに関する議論を見渡すと、様々な形態の女性差別に対する不平や不満の共有や問題提起といった、いわゆる社会運動・啓蒙活動のような性格をもつものが多い印象だ。
社会活動家でフェミニズムの権威の一人であるBell Hooksベル・フックスもフェミニズムを次のように定義して、その運動という側面を強調する。

性差別をなくし、性差別的な搾取や抑圧をなくそうとする思想運動のこと。

原著:Bell Hooks(2000)『Feminism is for Everybody : Passionate Politics』
訳書:堀田 碧(2003)『フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学』新水社

日本においては高橋(2011)がフェミニズムを「性差別を、主に女性の立場から批判的に読み解き、かつ/あるいは、解体していこうとする思考と実践の総体」であると説明している。
ここからも、フェミニズムが思想哲学としてのみならず、実践活動と不可分なものであることが示されている。

フックス、高橋の両者とも、性差別に対抗するための思想と具体的な実践の両面をフェミニズムの最大公約数的な定義だと考えている点で共通している。
フェミニズムにおいて、理論と実践は思想の両輪なのだ。

厳密に確かめた訳ではないが、こうしたフェミニズムの捉え方はアカデミックな場に限った話ではなく、多くのフェミニストにも共有されているものと思われる。SNS上で多かれ少なかれ女性問題に対して何かしら意見表明をする人が多く見られるのは、そうした理由もあるのだろう。

もっとも、だからこそ安易に発言がなされやすいという側面もあり、その結果として論理に瑕疵のある主張が槍玉に挙げられ、フェミニズム全体に対する批判につながってしまうことも多々あるのだが……。

以下はホーン川島(2000)がフェミニズムを3つのレヴェルで捉えたものだが、ここでもフェミニズムにおける理論と運動の二面性が述べられているのが興味深い。

  1. 男女間には非対等な力関係があるという認識から出発して、その原因、プロセス、維持のメカニズムを分析する

  2. 社会的、経済的、政治的、文化的、心理的変革をめざす

  3. 理論運動である

次項で述べるが、現在のフェミニズムの理論的立場は実に多種多様なものがあり、百家争鳴の様相を呈している状況にある。

そしてそういった理論を実践活動に応用する場合は、さらにその具体的方法や訴求対象、分野、範囲や領域など千差万別な組み合わせが想定できる。となれば個人における理論と実践の組み合わせはまさしく無限ともいえる数に上り、一人一人が全く異なることも不思議ではないといえるだろう。
これが「フェミニズムは一人一派」といえる第一の理由である。


2.性に関する問題が人間の活動領域のほぼほぼ全てにまたがっているために、フェミニズムの扱うパースペクティブがおそろしく広範な射程をもつこと。

ほんの基礎的なレベルにおけるフェミニズム理論の簡素な見取り図
引用:Karl Thompson(2017)「Feminist Theory : A Summary for A-Level Sociology」/『ReviseSociology』

以上みたように社会運動から始まったといわれるフェミニズムは、特に第二派フェミニズム以降の潮流において理論的にも精緻化・体制化されるにつれ、その思想的パースペクティブの領野をどんどんと広げていった。

実際、フェミニズムが背景としてもつ理論をほんの一部挙げるだけでも

  • リベラリズム

  • アナーキズム

  • マテリアリズム

  • モダニズム、ポストモダニズム

  • グローバリズム

  • ジェンダー論、クィア理論

  • カルチュラル・スタディーズ

  • 構造主義、ポスト構造主義

  • マルクス主義、新マルクス主義

  • 自然主義

  • 母性主義

  • 社会主義、ボルシェビズム

  • 社会学

  • 言語学

  • 政治学

  • 法学

  • 心理学、精神分析学

  • 工学、サイバネティクス

  • 哲学

  • 生物学、生理学

  • 宗教学

  • 神学                     など多岐にわたる。

そして同じ認識論の枠組みの中ですら、異なる理論が多数乱立するような状況なのである。

さらに全く同じ理論的背景をもっていても、目標としてめざす水準や質の種類が異なる場合は珍しくないうえに、ひとつの立場が複数の理論にまたがっている場合も珍しくない。
また、理論や概念の枠組みそのものを根本的に問い直そうという発想もなされていることも考えると、もはや分類することが不可能なほど多くの思想的立場があるといえよう。

加えて既存の学的理論の内側においての思索にとどまらず、西洋思想パラダイムの相対化、それどころか人類全体の文化の相対化のような風呂敷を広げすぎてはいまいかと心配になるようなことまで議論の俎上におかれているのである。

Shulamith Firestoneシュラミス・ファイアストーンは、フェミニズム理論の射程について著書の中で以下のように述べる。

フェミニストは、すべての西欧文化にとどまらず、すべての文化機構そのもの、ひいては自然機構までを問いなおさねばならなくなる。多くの女たちは絶望してあきらめる。そんなに奥深くまで行かなければならないのなら、もう知りたくない、と。

原著:Shulamith Firestone(1970)『THE DIALECTIC OF SEX : The Case for Feminist Revolution』
訳書:林 弘子(1972)『性の弁証法ーー女性解放革命の場合』評論社

先述したように世界認識の仕方や概念の問い直しすら行われている現在フェミニズムは言わずもがなであるが、第二派フェミニズムの古典ともいうべき『性の弁証法』の中ですらこう論じられているのだ。
このような点からでも、フェミニズムがいかに広範な視野を有しているかは想像していただけるだろう。

Shulamith Firestoneシュラミス・ファイアストーン
引用画像:Joanna Biggs(2015)『My hero : Shulamith Firestone by Joanna Biggs』

東京都立大学名誉教授であり社会学者の江原由美子は、フェミニズムが第一義的問題とする「性別」の関わる領野の広さについて、1990年代の時点で既に次のように述べている。

「性別」が関与する社会生活領域は、あらゆる領域にわたっている。家族・労働・政治・文化・教育・医療・福祉など、すべての生活領域において、「性別」はそこにおける社会的相互行為を形づくる重要な変数であり続けている。(中略)社会において「身体」が持つ意味。生殖という人間の再生産に関与する社会的権力。ジェンダーとセクシュアリティとアイデンティティ。言語とジェンダー。近代ナショナリズム形成とジェンダー・イデオロギー。近代的労働観念の形成とジェンダーなどなど。

江原 由美子(1997)「視座としてのフェミニズム」/『ワードマップ フェミニズム』新曜社

こういった現況もあり、江原(2009)はフェミニズム理論に対しては次のようにまだまだ発展途上だという見解を示している。

個別の経験を記述すること自体、すなわち家庭内や職場における女性の様々な経験を記述すること自体、それぞれの論者の理論的営為なしにはなしえないような状況があるのである。日本のフェミニズム理論は、このような一人一人の営みによって現在作り出されつつあるのであり、出来上がった理論体系としてあるわけではないのだ。

江原 由美子(2009)「知識批判から女性の視点による近代観の創造へ」/『新編 日本のフェミニズム 2 フェミニズム理論』

つまりフェミニズム理論はその広範さと深遠さゆえ、まだまだ発展途上でもあるのであろう。
それならばなおさら、フェミニズム言説の中には「前理論」ともいえるような、確たる理論化にはまだ至っていないものも存在するのであろう。
こういった部分も、「フェミニズムは一人一派」の性質に拍車をかけていると思われる。

こうして見ると、意見主張や実践活動以前の理論化段階ですら、同じ視点をもっていることがいかに珍しいかがわかる。
実際、フェミニスト同士が熾烈に論争を行うことは決して珍しいことではないのだ。むしろフェミニストのフェミニストに対する痛烈な批判は、フェミニズムを学んでいればお馴染みのものだろう。

もちろん、フェミニズム内部でも多様な論争が存在している。たとえば、「女性性」や「女性原理」は、女性にとって本質的なものか(「本質主義」)、それとも、社会的・文化的に構築されたものか(「社会構築主義」)といった議論はその典型だろう。

伊藤 公雄・樹村 みのり・國信 潤子(2011)『女性学・男性学 ジェンダー論入門』有斐閣

兎にも角にも以上から、フェミニズムにおける理論的背景や問題意識の扱う範囲がいかに広いかが分かっていただけたと思う。
これが「フェミニズムは一人一派」といえる第二の理由である。


3.その思想史的特徴から、歴史的にフェミニズムは質的な個人体験や内的観念、そしてそれを語っていく個人のナラティブを重視すること。

自身に起きた性被害を告発する#MeToo運動は、個人的体験を訴える最も大きな運動のひとつ
引用画像:EJ Dickson(2020)「MeToo運動が浮き彫りにした「有害な男らしさ」とは?」/『Rolling Stone JAPAN』

本節1項でも述べたが、フェミニズムは社会運動から始まり、その後理論的にも思想的にも洗練が重ねられてきた。

そして欧米圏から日本に広がった「第二派フェミニズム」の実践における大きな特徴のひとつが、自分の個人的経験を語り合うという活動が重要視された点である。

ウィメンズ・リブで重要な役割を果たしたのが、「CR」(コンシャスネス・レイジング consciousness raisingの略、意識変革とか意識覚醒の意味)と呼ばれる活動の手法である。これは女たちが集まってそれぞれが抱えるさまざまな悩みを語り合うなかで、それらが決して個人的・個別的な問題ではなく、多くの女たちが共通して経験するものであり、経済・政治・法律・文化といった大きな社会構造によって生み出され、規定されている問題であることに気づいていくプロセスを意味している。

荻野 美穂(2014)『女のからだ フェミニズム以後』岩波書店

第二派フェミニズムや1980年代以降のウーマン・リブでの「個人的なことは政治的なこと(The Personal is Political)」という有名なスローガンも、こうした意識高揚の場における女性同士の語り合いの土壌からうまれてきたといわれている(秋山, 2003)。
なぜこのような方向性が必要になったかといえば、もっとも個人的なことと思われた私的領域における現象が、例外なく政治的な基盤に根差すものだということがフェミニズムによってえぐり出されたためである。
つまり女性の生活に隠れた政治性を議論の俎上に置くために、その「政治的なものにもとづく個人的なこと」を女性が語らなければならなかったのだ。

中川(2013)は女性運動に携わってきた女性達へのインタビューを通して当時の経験を調査した。そして彼女たちは「女性運動家」である前に「生活者」なのであり、「生活者」の視点から社会変革を目指した結果、それが「女性運動家」につながったのだと考察している。
このような点からは、当時の女性運動が何よりもまず私的な体験から出発し、そのような行動があってこそポリティカルな場に対する運動に広がり得たことがうかがえる。

そして私的領域における体験の表現に「語り合いの場」が必要とされた理由が、長きにわたって女性はなにかを主張し論じる公的な場から疎外されてきたという歴史の存在である。

例えば男女の話し言葉や書き言葉には性差があり、男性のほうが議論や主張をするのに向いている、というようなイデオロギーなどは堅固な影響力をもっていた。
聡明な読者諸氏からすれば嗤笑を誘うような理由づけだろうが、こういった言説が広く信じられることで女性は公的な「話し・書く」場から排除されてきたのである。

例えば18世紀にはJonathan Swiftジョナサン・スウィフトが、発音の性差とそれがもたらす効果について述べている。
20世紀にはOtto Jespersenオットー・イェスペルセンが『言語ーーその本質・発達・起源』の中で、女は上品で曖昧で間接的な表現を好むことから力強さや活気が欠如し、それが原因で偉大な演説者としては不適格だと論じている(Jespersen, 1922)。

森喜朗氏の「女性の会議は時間がかかる」発言は海外ニュースでもとりあげられた
引用:BBC NEWS(2021)「Yoshiro Mori : Tokyo Olympics chief steps down over sexism row」

このような言説がもたらした女性の語りからの疎外についてMary Beardメアリー・ビアードは以下のように述べ、その歴史の古さについて概説する文献を出版しているので参照されたい。

西欧社会には女性を黙らせ、女性の言葉を軽んじ、権力の中枢から切り離そうとするメカニズムが根深く存在してきたという事実について。じつはこの件についても、古代ギリシア・ローマの世界が、現代を知るヒントを与えてくれます。女たちの口をつぐませることにかけては、西欧文化には何千年もの実績があるのです。

原著:Mary Beard(2017)『Women & Power : A Manifesto』
訳書:宮崎 真紀(2020)『舌を抜かれる女たち』晶文社

さらに、こういった疎外は単なる一方的な抑圧では終わらない。性差に基づく語りの向き不向きといったイデオロギーや偏見は、女性自身にも自然に内面化されてしまうのだ。
そしてイデオロギーや偏見に即したアイデンティティに同一化するように、果てにはイデオロギーや偏見に即した振る舞いをするように促されてしまうのである。

言語学者のShoshana Felmanショシャナ・フェルマンはこう論じる。

私たち自身、男性的な精神をすでに内包していて、社会に送り出されるときは、知らず知らずのうちに『男として読む』ように訓練されてしまっているのではあるまいか?
テクストを支配しているのは男性主人公なので、その男性中心的な見方に自己を同一化するようにと、私たちは訓練されてきた。男性主人公の見解が、世界全体を見る基準であると、私たちは思い込まされてきたのである。

原著:Shoshana Felman(1993)『What Does a Woman Want? Reading and Sexual Difference』Johns Hopkins University Press
訳書:下河辺 美知子(1998)『女が読むとき 女が書くときーー自伝的新フェミニズム批評』勁草書房

つまり、社会的・文化的に使われている言語は男性を中心化する、もしくは女性を周縁化する構造的なシステムが埋め込まれるように形成されているといえるだろう。

そうであれば言葉とは常に「男性のもの」であり、その性質ゆえに女性は語れば語るほどに言語から疎外されてしまう。女性はそういった場に置かれ続けてきた、ということである。
第二派以降のフェミニズムが「まず語ることから」始めたのは、こういった背景に対して抵抗し、そして主体的に語るための実践を暗中模索しながら進めていくための必然的な要請だった。

フランス哲学の大家Hélène Cixousエレーヌ・シクスーは言説・芸術・言語活動など一切のものは男性/女性の対比と結びついて構成されると論じ、言語体制を男根中心主義的だと指摘した(Hélène Cixous, 1993)。
さらに加えて曰く「ことばを女が創らねばならない」と論じたことは、女性が自らの性を語ることがどれほど難儀であるかを示している。

そのように女性を語りの場から疎外するシステムをもつ西洋近代の価値観を輸入し特権化した戦後日本におけるフェミニズム運動が、西洋諸国と同じように「女性の語り」を重要視したことは当然の帰結だといえるだろう。

女性の言語からの疎外の理論展開にはかねてから賛否両論あるが、本稿で重要なのはその理論が真理を反映しているかどうかではない。
歴史的に女性が語ることから疎外されてきたこと、そうであるがゆえに女性運動ではまず何よりも「語る」ことそのものが必要とされたこと、そういった流れからフェミニズムでは個人のナラティブが重視されたこと、これらを掴んでおくのが本項一番の主題である。

以上からフェミニズムは「個人的経験」を女性自身が語ることを重んじるが、この特徴は次のような誤解を受ける原因でもある。
それは、フェミニズムが「理論として一般化不可能な主観論」であるといったものである。

確かに、個々人の意見が思想の中でもかなり特権的な扱いを受けているのなら、フェミニズムは統一的な見解を保持することのできない単なる主観の集まりに見えてしまうことも理解できる。

しかしフェミニズムが「個人的体験」を重視する理由は、そもそも自身の体験から出発しなければ理論と結びつけることも実践として行動することも能わないという上記の実情があるからなのであって、決して個人の体験を絶対視するといった観念論的な考えではないのだ。

ただ、この事実を理解してもらうのは大変難しいことである。特に近代的な自然主義的な認識論、つまり「科学的なものほど真理に近い」という考え方を学んできている現代の人々に分かってもらうのは……。(もっとも、あいつ自身も長くそういった考え方をもっており、フェミニズムに対してかなり懐疑的な時期もあった)

そのように「個人経験」と「理論」の両面を扱うウーマン・リブ運動の困難さは、次のように語られる。

従来、多くの社会運動や差別問題においては、「理論」によって個人的な問題を切り捨てるか、逆に特定の個人の痛みを絶対化・神聖化してしまうか、いずれかであった。各自が自分の痛みを被害者としての意識でのみ把握していたのでは、けっして立場の異なる他者と了解しあうことはできない。多くの差別問題における困難性は、ここにある。
リブ運動では、一方において運動から「他人のため」という大義をとりはずし、「等身大」の自己解放運動とすることで個人的な体験の切り捨てを防ごうとし、他方において、「戯画化」によって痛みの自己相対化・自己陶酔を防ごうとした

江原 由美子(2021)『女性解放という思想』筑摩書房

以上で見てきたように、フェミニズムにおいて理論のバックボーンになり、実践の契機となるのは個人の置かれている社会的な文脈、その人の生きていた人生そのものである。

働く女性にとって家事や育児をパートナーとどう分担するかは重要な問題ですが、非正規雇用で働くシングルマザーにとっては、公的な保育制度をどう確保できるかという問題の方がはるかに切実かもしれない。あるいはレズビアンカップルにとって重要なのは、二人の間での家事分担よりも、二人の関係が法的に承認されないことかもしれない。トランスの女性にとっては、そもそも女性として仕事をすることが可能かどうかがもっとも重要な問題かもしれない。

清水 晶子・実川 元子(2020)『清水先生、フェミニズムってなんですか?【VOGUEと学ぶフェミニズム Vol.1】』

そしてここには性別だけでなく、人種や年齢、社会階層、職業、宗教、セクシュアリティ、アイデンティティ、健康状態などさまざまなインターセクショナリティが存在することも留意しておく必要があるだろう。

もしもひとが女で「ある」としても、それがそのひとのすべてでないことは確かである。その語がすべてを包摂することができないのは、ジェンダー化されるまえの「ひと」が、そのジェンダーを成り立たせている装具一式を超えたものであるからではない。そうではなくて、異なった歴史的文脈を貫いてジェンダーがつねに一貫して矛盾なく構築されているわけではないからであり、またジェンダーは、人種、階級、民族、性、地域にまつわる言説によって構築されているアイデンティティの様態と、複雑に絡み合っているからである。

原著:Judith Butler(1990)『GENDER TROUBLE : Feminism and the Subversion of Identity』
訳書:竹村 和子(2018)『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』青土社

そういった個人の人生史は、フェミニズムが「言説主体の」――つまり「どういった人が発言したか」という点にも目を向けることからも重要になってくる。

たとえば物理学や化学などの自然科学は、言説主体が中立であると(あくまで便宜上ではあるが)みなされる。
定理や原理は観察者がどのような人物であろうと不変な法則であり、そこに社会的、文化的、政治的な文脈など関係しないという立場をとるのである。

しかしフェミニズムは、女性というカテゴリの問題を第一義的な課題ととらえる以上「誰が言ったか」ということにも目を向けなければならない。(おそらくもっとも問題となるのは男性によるフェミニズムという点であるが、相当込み合った議論になるので割愛)。
そのように言説主体のインターセクショナリティに目を向ける理由としては、フェミニズムが運動の過程で同性愛者や労働者階級の女性、障害をもっている女性、黒人の女性、貧困家庭の女性などさまざまな属性を抱える女性からの批判を浴び続けてきた経緯があるためだ。

つまりフェミニズムは数多の理論と実践法のみならず、その言説を行う人の個人史や属性も問題となってくるのである。
ここまでくると、全く同じ立場をとっている人が存在することが奇跡とすら思えてくる。
これが「フェミニズムは一人一派」といえる第三の理由である。

(一応付言しておくと、女性が主体としての言葉を獲得することを優先的な課題だとみなす風潮は、実は近年フェミニズム内部から――特にポストモダン・フェミニズムから批判されている。しかし本項では当事者による個人的経験の語りがなぜ重視されるようになったかという歴史的経緯を一人一派の論拠のため解説するという特性上、以上のような結論となった。)

4.上記三点のまとめ

以上1~3項までの内容をざっとまとめれば以下のようになる。

まずフェミニズムは応用実践という側面が重視される思想である。そしてその実践の中にも、草の根的なものから大規模なデモ活動まで幅広い規模があり、具体的な方法としても小グループでの啓蒙から学術書の出版まで様々な方法が考えられる。
そのような運動の過程で数多くの背景理論が続々と生まれ、それは今も増え続けている。そして似通った理論的背景を共有していても、全く同じ理論をもつ場合はほとんどないと述べた。
そこで理論と実践の組み合わせが生じ、さらに多様な意見を生むことになった。

またさらにいえば、実践方法はその人の依って立つ理論と同じでなくても全く問題ない。
例えば理論的にエコロジカル・フェミニズムの立場で資本主義からの脱却を女性解放の目標としている人が、実践ではもっと現実的に議席数などの政治的権利の形式的平等を目指す運動を起こしたとしても、そこに矛盾はない。

こういった事情からフェミニズムの主義主張はまさに十人十色、一人一派と言っても差し支えないのではないかというほど多様になっている

そして「個人的体験の語り」を重視するというフェミニズムの特徴から、理論と実践の組み合わせに加えて主張を行う人の個人史や属性のインターセクショナリティの組み合わせもプラスされる。

加藤(2005)はこうした論理展開を行っているわけではないが、フェミニズムについて次のように述べた。

フェミニズムとは多様かつ流動的な理論思想社会運動の総称であり、「本家」や「元祖」が決まっているわけではないし、さまざまな流派も固定的なものではない

加藤 秀一(2005)「フェミニズム内の対立から多様なフェミニズムが誕生した」/『図解雑学 ジェンダー』ナツメ社

以上の理由から「フェミニズムは一人一派」、つまり「同じフェミニズムという基本的な考え方を共有していても、各々の主張する意見は人それぞれ多種多様なものになる」という言説は妥当である――少なくともそうみなしても問題ないと考えられるのだ。


Ⅲ.「一人一派」の現状における語用

そうなると、「フェミニズムは一人一派」という言説はTwitterで喧々諤々に議論され非難されるようなものではないように思える。

しかし現実として批判は数多くされており、「フェミニズムは一人一派」という言葉が存在することでフェミニズム自体の論理性を損なっているのだと捉えられてすらいる。
たとえば以下のnoteやYoutube動画では「一人一派」に対して大変厳しい指摘がなされている。

ではなぜ、「一人一派」はここまで批判を受けているのだろう。
前節で述べたようにフェミニズムは実際に一人一派の思想といえるのだから、「フェミニズムは一人一派」と主張することはなんの問題もないはずである。

……批判の理由はおそらく、現状の「一人一派」の使われ方にあるだろう。
特にTwitterでの論議を見ていると、一人一派という言葉はかなり広範に拡大解釈されて使われている印象をもつ。

たとえばフェミニストを自称する人がTwitterで発言したところ、その主張がフェミニズムとして成り立っていない旨を指摘されたとしよう。その際に「フェミニズムは一人一派、なので私の意見もフェミニズムである」と発言することで自分の意見がフェミニズムに属するものであることの論拠とする、といったような使われ方がその一例である(というかむしろ、そういった使われ方が主とすらいえる)。

こうした「自称」フェミニストらの語用が、非フェミニストや反フェミニストから懐疑的・批判的な目で見られることはある意味で当然であろう。

というのもTwitter上での議論ではほとんどの場合、「フェミニズム思想からは多種多様な主義主張が生まれる」という論理が逆転して「どのような人間のどのような意見であろうと発言者が主張する限りそれはフェミニズムの枠組みをもつ」という論理展開になってしまっているためである。

果たして、自称フェミニストが多用するこういった使い方は正当なのだろうか?

まずフェミニズムは一人一派、すなわち「フェミニズムであれば多種多様な意見が含まれる」という命題が真であることはⅡ節で見てきた。
下図でみると左上にあたる。
すなわち「p(フェミニズム)は、q(多種多様な意見)である」という論理だ。

この場合、同じく必ず真になるのは右下の「対偶」の論理になる。
「qでなければ(多種多様な意見が含まれていない)、p(フェミニズム)でない」という論理である。

受験辞典(2021)「命題とは? 数学用語(対偶、逆、裏、真偽)の意味や証明問題」/『受験辞典』

一方、自称フェミニストの「多種多様な意見の一つであればフェミニズムである」という論理は上図でいうと「逆」の論理であることがわかる。
「q(多種多様な意見の一つ)は、p(フェミニズム)である」というわけだ。

では対偶の場合と同じように、逆の論理は真になる――つまり論理的に成立するのだろうか。
もし成立するのであれば自称フェミニストの「一人一派」の使い方は正しかったことが分かり、そうであれば的外れなのは「一人一派」に対する批判の方であるが………。

野矢(1994)によればこうだ。

一つ、日常言語のレベルで押さえておいてほしいことがあります。「PならばQ」が真のとき、その対偶は必ず真になりますが、逆や裏は必ずしも真にならない、ということです。

野矢 茂樹(1994)『論理学』東京大学出版会

すなわち、自分の意見がフェミニズムに包含されることの根拠として「フェミニズムは一人一派」という命題を引き合いに出すのは、命題論理的にみると誤りであり、論証になっていないのである。
つまり「フェミニズムは一人一派」と主張することは自分の発言がフェミニズムであることの担保にはならないことがわかる。

もちろん実際にはその人の意見がフェミニズムに含まれる場合もあるだろう。
しかしある意見がフェミニズムであるかどうかが「フェミニズムは一人一派」という言葉によって論証できるとは限らない以上、己の意見がフェミニズムであると論証したいのであれば、ただ「フェミニズムは一人一派」と主張するだけでは不十分なのである。
なぜ自分の意見もフェミニズムに含まれるのかという、フェミニズムと自論の整合性について妥当性のある説明を行う必要が――つまり論証責任があるのだ。

だが、現状しっかりと妥当な説明を行っている者がどれくらいいるのだろうか。
極めて少ないと言わざるを得ない。
ほとんどの場合は「フェミニズムは一人一派なのだから、自分の意見はフェミニズムである」と、あたかもこれを言えば論証完了となる決まり文句として、自説の不十分さに対する便利な言い訳や免罪符のような使われてしまっている(発信者の名誉のため、具体的なアカウントや発言内容の引用は避けた)。

確かに命題における「逆」の論理は直感的には正しく感じることもあるし、実際に正しい意見もあったのだろう。
ただいつからか、その「逆」の論理が(おそらくは言い訳としての有用さゆえ
えに)真実のように扱われるようになり、その使われ方が無批判に反復されていくことで現状に至ったのだろう。

以上から、「一人一派」という言葉自体はフェミニズムの性質を表現するのに適切である一方、Twitterなどでは誤った使い方をされており、その使われ方に対して方々より批判が相次いでいるのだといえよう。


Ⅳ.結論

Ⅱ節で述べてきたように、「一人一派」はフェミニズムのもつ多様性やインターセクショナリティといった側面を的確に言い表している。
フェミニズムはその思想の特性上、同じ「フェミニズム」という枠組みを共有していたとしても一人一人異なる言説を行わざるを得ないからである。

しかし社会の中における言語の意味は、全てが辞書的に決まるものではない。

言葉の「意味」というものは少なくとも通時的には変化していくものであり、その時点でどんな意味が支配的なものとして顕在するかは、コミュニケーションの中での使われ方に強い影響を受ける。

言語学の父Ferdinand de Saussureフェルディナン・ド・ソシュールは各個人の発話(パロール)はその時点の言語規則(ラング)に制限を受けるとしながらも、その意味規則の構造は各個人の発話(パロール)の実践反復によって構成されるとしています。

(ラングとパロールの)二つは、ともに社会的事実としての、構成する動きと構成された状態でもあれば、他方ではいずれも、個人の次元において観察されます。つまり、本来的には全く個人的な発話行為であるパロールが、ディスクールという実践を通して社会関係を樹立するのに対し、本来的には社会制度とみなされるラングの方も、個人の潜在的記憶の中に規則と結合価を担ったシーニュの体系が作られているという意味では、まことに個人的なものでもあるのです。

丸山 圭三郎(2012)『ソシュールを読む』講談社

つまり言葉の意味は「本来的にどのような意味を持っているか」よりも「どのような意味として使われており、共通了解がなされているか」という点において決定されるといえる。

そしていまや「フェミニズムは一人一派」という言葉の主な使われ方は、Ⅲ節で述べたように「フェミニズムは一人一派なのだから、自分の意見はフェミニズムである」といった逆転したものだ。

フェミニストを自称する多くの人がこのような意味で使っているのだから、非フェミニストがそれを「正用」だと受け取るのも当然であり、論理の誤謬に対して批判を行うのも正当なことである。
そういった批判には主張を行った側である(自称)フェミニストが説明を行うべきである。
しかし残念なことに、根拠を示しながら論証するよりも「フェミニズムは一人一派」を決まり文句のように用いてお茶を濁すことを選択する人が多数を占めているようである。

現状における「フェミニズムは一人一派」という言説は、最初は論理逆転した語用から始まった。
議論相手である非フェミニストからすれば、その語用がフェミニズムにおける正しい解釈なのだと受け取れるだろう。
しかしその解釈はそもそもが論理逆転したものであるがゆえ、非フェミニストは当然の帰結として論理的批判や反証を行う。
そういった反論に対してフェミニスト側から妥当な反駁がなされないという状況が続いた結果、「フェミニズムは一人一派」という言葉の意味は「フェミニズムは一人一派なのだから、自分の意見はフェミニズムである」なのだという共通了解ができてしまったのであろう。


おわりに

みなさん、お疲れ様です。
noteの中でもかなり長い部類になってしまった本稿を最後まで読んでくださり誠にありがとうございます。

「フェミニズムは一人一派」という言説のもつ意味射程と意味形成のプロセスについて、必要最低限ではありますが論じてきました。

この言葉を最初に述べた人はどんな思いを込めて使ったんでしょうか。
今となってはわかりません。

フェミニズムは本来、知的であり自己省察に満ち満ちた思想です。
真摯にフェミニズムを学んでいる者であれば、自分の意見を十把一絡げに「フェミニズムは一人一派」に収斂させるようなことはせず、なぜそのような意見になったかを誠実に論じるべきだと思います。

本稿ではさしあたって、多くの人が抱えているであろう「一人一派ってどういうこと?」という疑問に答えることができたのではないでしょうか。

あいつ自身は、もうこの言葉は使わないほうがフェミニズムにとって有益だと思っています。
確かに「一人一派」はフェミニズムを表現するうえで的確な言葉でしょう。だけれど、ここまで逆転した論理がインターネット上で支配的になってしまった以上、「一人一派」という言説はフェミニズムに対するあらぬ誤解を広げてしまうだけな気がしてならないのです。

なので、もしもっと良いコトバを思いついた人がいれば、ぜひコメント欄で教えてください。

それではまた、どこかで。
あなたの頭の中のどこかでお会いしましょう。


引用資料

・BBC NEWS(2021). 「Yoshiro Mori : Tokyo Olympics chief steps down over sexism row」(https://www.bbc.com/news/world-asia-56020674)

・Beard, Mary(2017). 『Women & Power : A Manifesto』Profile Books
(宮崎 真紀(訳)(2020). 『舌を抜かれる女たち』晶文社)

・Biggs, Joanna(2015). 『My hero : Shulamith Firestone by Joanna Biggs』
(https://www.theguardian.com/books/2015/may/09/my-hero-shulamith-firestone-by-joanne-briggs)

・Butler, Judith(1990). 『GENDER TROUBLE : Feminism and the Subversion of Identity』Routledge, Chapman & Hall, Inc.
(竹村 和子(訳)(2018). 『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』青土社)

・Cixous, Hélène(1975). 『Le Rire de la Méduse』L'Arc
(松本 伊瑳子(編訳)(1993). 『メデューサの笑い』紀伊國屋書店)

・江原 由美子(1997). 「視座としてのフェミニズム」/『ワードマップ フェミニズム』新曜社

・江原 由美子(2009). 「知識批判から女性の視点による近代観の創造へ」/『新編 日本のフェミニズム 2 フェミニズム理論』岩波書店

・江原 由美子(2021). 『女性解放という思想』筑摩書房

・EJ Dickson(2020)「MeToo運動が浮き彫りにした「有害な男らしさ」とは?」/『Rolling Stone JAPAN』(https://rollingstonejapan.com/articles/detail/33013)

・Felman, Shoshana(1993). 『What Does a Woman Want? Reading and Sexual Difference』Johns Hopkins University Press
(下河辺 美知子(訳)(1998). 『女が読むとき 女が書くときーー自伝的新フェミニズム批評』勁草書房)

・Firestone, Shulamith(1970). 『THE DIALECTIC OF SEX : The Case for Feminist Revolution』Wiliam Morrow and Company
(林 弘子(訳)(1972). 『性の弁証法ーー女性解放革命の場合』評論社)

・支倉 寿子(2003). 「平等か差異か」/『概説 フェミニズム思想史』ミネルヴァ書房

・Hooks, Bell(2000). 『Feminism is for Everybody : Passionate Politics』South End Pr
(堀田 碧(訳)(2003). 『フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学』新水社)

・ホーン川島 瑤子(2000). 『フェミニズム理論の現在:アメリカでの展開を中心に』ジェンダー研究, 3, 43-66

・伊藤公雄・樹村みのり・國信潤子(2011)『女性学・男性学 ジェンダー論入門』有斐閣

・Jespersen, Otto(1922). 『Language : Its Nature, Development, and Origin』Henry Holt & Co.
(三宅鴻(訳)(1981). 『言語―その本質・発達・起源』岩波書店)

・受験辞典(2021). 「命題とは? 数学用語(対偶、逆、裏、真偽)の意味や証明問題」/『受験辞典』(https://univ-juken.com/meidai)

・Karl Thompson(2017). 「Feminist Theory : A Summary for A-Level Sociology」/『ReviseSociology』(https://revisesociology.com/2017/02/03/feminist-theory-summary-sociology/)

・加藤 秀一(2005). 「フェミニズム内の対立から多様なフェミニズムが誕生した」/『図解雑学 ジェンダー』ナツメ社

・丸山圭三郎(2012). 『ソシュールを読む』講談社

・中川 浩子(2013). 『女性運動に参加した女性たちのコミュニティ感覚と世代継承性について ー「生活者」としての女性たちの語りをとおしてー』コミュニティ心理学研究, 17, 1, 15-30

・野矢 茂樹(1994). 『論理学』東京大学出版会

・荻野 美穂(2014). 『女のからだ フェミニズム以後』岩波書店

・清水晶子・実川元子(2020). 『清水先生、フェミニズムってなんですか?【VOGUEと学ぶフェミニズム Vol.1】』
(https://www.vogue.co.jp/change/article/feminism-lesson-vol1#:~:text=%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%82%92%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%82%8B,%E3%81%A8%E5%AE%9A%E7%BE%A9%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82)

・高橋準(2011). 『ジェンダー学への道案内』北樹出版


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