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育てられる私から、育てる私になるまで

 幼い私は、母に厳しく育てられた。
 食事の仕方、友人との遊び方、目上の人との関わり方、様々なことで怒られた。

 決してやんちゃな女の子だったわけではない。
 読書が大好きで、一日に食べるお菓子の数やテレビを見る時間を決めて守るような、背の順で一番前になることへ責任感を覚えるような、サンタさんの存在を少しも疑うことのないような、そんな女の子だった。
(母に「サンタさんって親なんだよ」と言われる小学6年生の12月まで、私はサンタさんを真剣に信じていた。母曰く、真実を聞かされた私は顔面蒼白だったらしい。)

 25歳で私を産み、初めて母親になった母と、世界でたったひとりの母から愛されたい私。
 私にとって母は、絶対的な人だった。
 誰だって、幼少期を振り返れば、この感覚が少しは分かると思う。 

 母は、人への接し方に特に厳しかった。
「失礼だからあの言い方はダメ」
「嫌な思いをさせたかもしれないから、明日謝りなさい」
なんて怒られ方をよくしていた。
 母は私に、相手の立場に立って考えられる子になって欲しかったのだろう。

 時々、会話の一部しか聞いていなかった母の勘違いでも怒られることがあった。
 決まって私は口答えできなかった。
 その場に立ち尽くして、母に言われた言葉を頭の中でぐるぐると巡らせ、母が正しく、私が間違っていると思い込んでいた。

 本来、相手の立場は、相手に聞いて確認し、相手が本当のことを教えてくれなければ、分からない。
 想像した立場が当たることはあるし、思いやりは持つべきだけれど、想像や思いやりに依存しても、相手の虚像が出来上がるばかり。
 つまるところ、架空でしかない。
 それを理解していない当時の私は、ひたむきに母の教えを守ろうとし、相手の立場に立って考えられる子というよりも、相手の目を気にする子に育ってしまった。

 母もまた、人の目を、夫や子どもたちの目を、気にしていたのだろう。
 母親という立場で在りながら、誰かの立場に立とうとすることに、疲れたのだろう。
 私が15、16歳の頃、母は「母親をやめたい」と言った。

 いつの間にか、過度に人の目を、取り分け母の目を、気にするようになっていた私は、母からの言葉に強くショック受けた。
 生まれてこなければよかったと泣き喚き、心のどこかで母が抱きしめてくれることを期待したけれど、母は自身のことでギリギリだった。
 そこから4、5年くらい、私は私を失敗作だと思い続けるようになる。
 母が居る場所では上手く笑えず、必ず言いなさいと教えられていた「ごめんなさい」や「ありがとう」が、喉につかえるようになった。

 今の私は、母の前でも誰の前でもよく笑い、「ごめんなさい」も「ありがとう」もまっすぐに言える。
 こうなれたのは、私が私自身を育てられるようになったからだと思う。
 相手の立場に立って考えることの意味を紐解いて、咀嚼して、その危うさを知った上で、相手の立場に立って考えられる。そういう私を、私のペースで育てられるようになった。

 そして、母は友人のような存在になった。
 母は母親である前にひとりの人間で、絶対的ではないと、20歳で迎えた反抗期を過ごしながら理解した。

 母はしばしば私に「あなたは私が23歳の時よりも大人だよ」と言うし、父も似たような事を言う。
 
 

 私が私を失敗作だと思っていたこと、今はそうは思っていないことを話すと、母は「私の育て方は間違っていなかった。だって、今は失敗作だと思ってないんでしょ。」と自信満々に言う。

  違う。違うけど、まあ、いいよ。
  育てられる私から、育てる私になるまで。


母が撮った私


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