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夏の終わりに空舞うこいのぼり



祖父が住む街がダムで沈むという話を聞いたのは、10歳頃のときだったように思う。
炭鉱の街で昔は多くのひとで栄えていたようだ。そのときの面影が残る町には、昭和の面影が残る木造の古びた住居が多く残されていた。
ひとはもうほとんどおらず、過去の思い出の中で生きる廃墟がひたすらわたしを儚い気持ちにさせる。
なつかしの昭和というDVDを実習先で観たときに、父がここでこのような環境で育ったのかと思ったら不思議だったし、それが時代から取り残され時が止まっているかのように見える町に変化したことが、とても切なかった。
生まれ育った町がダムで沈むという話を聞いたときに、祖父も父もその心に何を思ったのだろうか。

家から車で2時間くらいの距離の山奥に、祖父の家があった。
いまでもどこの建物がある角を曲がって山に入るのか、住んでいた建物がどのような建物だったのか、なぜだか鮮明に覚えている。思い出せる景色はセピア色に近く、カラーもレトロで色褪せているから朧げで夢を見ているような気持ちでもある。
それほど多くのひとが残した時間が、いまでもこの場所に染み付いて離れないのかなと思わなくもなかった。

祖父のことを毎日思い出すわけではなく、こいのぼりが空高く昇るのを見る度に思い出す。

こどもの日にこいのぼりがあがっていたのは、祖父の家に行く途中の道路から少し入ったところの川だった。
雲ひとつない青空を背景に空高くたくさんのこいのぼりが空を泳いでおり、こども心に美しいと感じた。
記憶も曖昧で正確な場所はわからないけれど、雲一つない紺碧の空に浮かぶさまざまな色合いのこいのぼりが泳いでいる姿、美しく澄んだ広い川に青青しい緑の葉たち、それに地面に自然に敷き詰められている白い小石たち。そのコントラストは、非常に幻想的だった。もうダムに沈んでおり、その景色をもう二度と見ることができないことが残念である。

ただ、祖父と一緒にその景色を見たわけではないし、祖父の家に向かう途中で見かけたこいのぼりという条件だけなのにも関わらず、祖父のことを思い出すたびになぜか神々しく幻想的に空を舞うこいのぼりたちが出てくるのである。

記憶というのは曖昧で、曖昧だからこそ思い出を美しく彩り飾ることもできるのかもしれない。


肺がんで闘病していた祖父が急変したという話を聞いたのは、それから10年と少し経ち、社会人3年目の夏の終わりのある日のことだった。
その頃の記憶は非常に曖昧で、術後何日後の話だったのかまでははっきりと覚えていない。
母から数日前に80になった祖父が肺がんで手術をした話を電話で聞いていたわたしは、その日母からの着信にものすごく言いようのない心のざわめきを感じた。
電話に出たら、急変してICUに入った、急変する前ずっとうわ言であんたと弟の名前を言っていたから都合がつくなら急いで帰ってきて、という内容であった。


祖父がどんな人物だったのか簡単に話そうと思うのだけれど、祖父はパチンコが好きでいつも年に数回遊びに行ったときもほとんど家にいなかったため、あまり記憶にないというのが正解である。話した記憶もそれほど残っていない。
若い頃はモテたんだろうなと思われるすらっとした長身の体躯に、目鼻立ちが美しく整ったひとだった。
あまり褒められるようなことをしたとは聞かず、ただのろくでなしであったと小耳に挟んでいる。

そんなわけで、なぜそんな孫にあまり関心がないように見えた祖父が死に際にわたしの名前を呼んでいたのか気になり、次の日飛行機に乗りかなり久しぶりに帰省をすることにした。

古びた大学病院でICUも数床、到着した時間は昼間だったがひとはほとんどおらず、閑散としていた。そのときは外来勤務だったので、久しぶりに感じる病棟の空気を感じることができた。
祖父がいるベッドへ行くと挿管されており、よく病棟で見てきた人工呼吸器であるベネット840に繋がれていた。胸腔ドレーンにも繋がれ、透析もしている状態であり、一目で見て祖父だとはわからない祖父の姿が目に入った。

広い窓から入る太陽の光があまりにも祖父の状況と比較して明るすぎて一層その光景を儚く感じさせた。感じることは多くあるのに、その感情は何も言葉にならずわたしの中をすり抜けていった。

とりあえず何かした方が良いような気がして、声かけを試みることにした。
だけど何も言うことが思いつかず、とりあえず会いに来たことを伝えてみようと思い、

「じいちゃん、会いに来たよ」

というようなことを言ってみた。

挿管していてセデーション(鎮静)もかかっているから動かないだろうと思っていたら、突然こちらに顔を向け目を開けてうーうーと唸りはじめた。
わたしは驚き、気がついたらいつのまにか涙が溢れ頬を伝っていた。
そのときなぜ涙が流れたのか、未だによくわからないでいる。胸が苦しくなって熱くなったことだけは覚えている。

そのあとスタッフが何人も押し寄せ場が騒然としたため記憶が曖昧なのだけれども、「こんなことがあるんだね」、「もう少し鎮静が必要」、「ドクターに依頼しよう」、という看護師の声を覚えていたのは職業病だと思う。
話によるとそれまで声かけしても反応がなかったそうなのだけれど、孫のわたしの声がわかったのか起きて何か話そうとしていたようであった。

そのとき一体祖父はわたしに対して何を思ったのだろうか。苦しみの中で何をわたしに伝えようと思ったのだろうか。
ただ死を待つだけのその静かな時をICUという特殊な環境にいた祖父は、わたしの人生に大きな課題を与えた。
この言葉にならない感情は一体何なのだろうか、未だに答えが出ない。


祖父が目を開けた姿を見たのは、それが最後だった。


その数日後、たまたまほかの家族が出払っており、仕事もやすみ続けるのはそろそろ厳しいからあした帰ろうと思っていたわたしと、仕事が休みでたまたまいた弟のふたりで、ICUで祖父を見送った。

死亡確認のあとも無機質に動き続けるベネット840から送り続けられている空気で祖父の胸郭が規則正しく動く様子が、妙に虚無感を誘った。
もうモニターからは自発呼吸の波形は見られない。
心電図もただの線で何の波形も刻んでいない。
だけど、人工呼吸器に繋がれていると生きているのか死んでいるのか、よくわからなかった。数刻前と比較して、何も変わっていないような気もした。看護師として今後どう生きていくのかを考えさせられる出来事となった。

もしかしたら手術しなくてもベースの肺の状態が芳しくなかったため、早くに死んでいたかもしれない。
でもそれは少なくともICUで人工呼吸器に繋がれている状態ではなかったはずだったのではないかと思うことで、自分の心の平衡を保とうと試みた。
少なくとももうすこし侵襲が少なく、より自然なカタチであったのではないかなとありもしない未来を想像し、悲しみに明け暮れた。そう思ったのはわたしが祖父に対して思う何かがあるからなのか、ひとりの看護師として思うことがあったのか答えが出てないのだけれど、たぶんそれらを統合してひとりの人間として思う何かがわたしの中にそのとき生まれたのだと思う。


できたこともあったことを、書き加えておこうと思う。
これを書いていてはじめて思い出したのだけれど、わたしはひとりでICUに行ったとき、祖父の清拭と手浴足浴をICUの看護師と一緒に行えた。

ただしケアをしていたときに思ったのは、なぜこんなに垢が溜まっているのだろう、ドレーンの固定位置が悪く妙なところに褥瘡ができかけているのに毎日何を確認をしていたのだろうかとひたすら看護師へのグチだったし、「声かけてあげてくださいね」と言われたけど、これまであまり話したこともなかったため特に話すことなく、ケアの最中は別に無言でも良くないかと思ったし、死亡確認後に一緒にエンゼルケアくらいはしたかったのに、有無を言わさずにあちらに言ってくださいと事務的に言われたことも事前にどうするか確認のひとつくらいしとけ腹立つなと思ったことは、はじめてひとに話すことになる。


ただ、あんなに不満しかなかったケアが、こうして時が経ってからあのとき最後に何か祖父のためにすることができたからあれはあれで良かったのかもしれない、と落としどころを見つけるための道標になっているのかもしれないな、と感じるときがある。
あのときの経験がいまのケアに活きていることは間違いなくて、少なくともわたしにとっては家族が最後に清潔ケアをする意味があったように思えた。
提案をしてくれた看護師に感謝している。

いまはコロナ禍でそもそも家族が面会すること自体が難しいと先輩から聞くし、コロナ禍での倫理的葛藤についての文献もいくつか読み、医療従事者と家族のどちらの気持ちも理解できることもあり大きな声では言えないんだけども、いち個人の話としてこのことを載せておこうと思う。


結局、祖父が孫のわたしたちに何を想っていたのかはよくわからなかったし確定的な手掛かりは掴めなかったのだけれど、祖父も祖父なりに思うところがあったんだな、と思うことにして、落としどころをそこに設定することにした。
曖昧でグレーにしておく方が良いこともたくさんあるし、たぶんこれもそのひとつなんだろうなと思った。
すぐに答えを出したがるわたしたちだけれど、答えがない正解というものがあることを、わたしはその後仕事での関わりで知ることになった。


葬儀の日、火葬場に向かおうとしたときにふと見上げた空は、雲ひとつない青空だった。
祖父はハレ男だったらしい。
夏の終わりなのに、幼い頃に見たもう見ることのできない記憶のなかでしか見えないたくさんのこいのぼりたちが、まるで祖父を見送るかのように空高く舞い上がる様が見えたような気がした。

そうだ、祖父は空に泳ぐこいのぼりのように自由な姿が似合うひとだったんだなと思った。

いまでもわたしの記憶の中に、あの幻想的な景色の中でこいのぼりが泳ぐ美しいさまが、祖父の記憶と共にある。

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