見出し画像

2017年 漱石を追って、東京。うなぎ。

↓私の記事朗読が再生できます。約5分50秒。

コロナで多くの老舗が営業継続を諦めたというニュースを聞く。
私はその街に、その通りに、足を運んだことはもちろんないかもしれないが、それでもその地域に住む人々の落胆とノスタルジーに思いをはせる。

ひとつ、老舗がなくなるということは、その通りの景色が変わり、その景色が運んでいた歴史がなくなり、その歴史を伝えていた味が、経験が、思い出を繰り返す術が、なくなるということである。

2017年12月、私は早稲田にいた。

ちょうど狂ったように演劇鑑賞にはまり、毎月のように東京に通っていた私は、たまたま別の目的で東京に来ていた友人と合流し、できたばかりの漱石山房記念館を訪ねた。漱石好き、というか文学一般に明るい友人は、その設立の感謝碑に名前を連ねていた。

記念館を訪れる前に腹ごしらえしようと周囲を歩く。
近くにあった夏目漱石誕生の地は、「やよい軒」になっていた。
いや、ここでは食べる気がしない。

画像1

漱石には、生まれてすぐ里子に出されたものの、たしか八百屋だった先の家で籠に入れられて放っておかれているのを、姉が見つけて生家に連れ戻したというエピソードがあった。
なるほど戻ってきたのはここか、と坂の途中の家を通り過ぎる。

地図アプリなどで周辺を探していると、坂を降りた先に漱石の通っていたという鰻屋があることを見つけた。
明治10年から店を構える、「すず金」である。

店の先には品書きがある。なるほどいい店らしく、20代そこそこの私たちにしては少し高級のようだ。

画像2

どうしよう、でもせっかくだしな、と決めあぐねていたところに、やさしい上品な口調で横から声をかけられた。

「どうしたの、食べていけばいいじゃない。」

それはきれいな東京のイントネーションだった。そこには、深いエンジ色のシャツをきた、小柄な女性が立っていた。

「ここ、おいしいのよ。私、一週間に1回はここに食べに来てるんだから。」

平日の、午後の1時を少し過ぎていたからか、店内には客はいなかった。
その女性は「いつもの」を頼み、私達は控えめに、でも美味しさだけは約束されたうな重を注文した。後にも先にもこんなに高級なうなぎを食べることはあるだろうかと思いながら。

先に到着した一番いい重箱の蓋を開けながら、隣のテーブルに座った女性が「こうして食べるのよ、」とうなぎを一度ひっくり返して山椒をかける。

「沖縄には数年前に息子夫婦といったことがあるわ。なんだったかしら、サミットの会場になったといってたホテルのスイートに泊まってね。」

ブセナテラスである。ああ、それは非常に良いホテルですね。

「ここのうなぎの味付けがちょうど良いのよ。しつこすぎなくて。」

確か、よそから嫁いでもう何十年とここで暮らしていると話す彼女は、80をとうに過ぎていたように思う。彼女はこの地域の変遷を、時代の変遷を、どの立場から見つめてきたのだろう。

彼女と私達と、どちらが先に食べ終わったかまでは思い出せない。

うなぎは、とろっとして、やわらかく、甘く、食べやすく、山椒が効いていた。漱石が味わったその味を、私達も味わったのだろう。

画像3

コロナ禍であの店はどうしているだろう、と調べてみたが、営業を継続しているのかはわからずじまいだった。2019年から休業しているという記事もあった。商売の栄枯盛衰はなかなか読めないし、事情も知らないただ一度訪れただけの訪問者が何を言う資格もない。けれど、やっぱり持ちこたえていてほしいと思ってしまう。(うなぎの生産自体に問題はあるのでそれはそれで心配だ。)

最近、「アトツギベンチャー」なり、「跡継ぎビジネス」という言葉も聞くようになってきた。古い商売は、その場所だからこそ、そこにある理由、歴史、世代を超えて再現できる経験があるはず。改めて、後を継ぐというのはかなりの根気が必要だし、時代を生き抜く知恵が求められているのだなと、この店を思い出して、頭に浮かぶ「アトツギ」たちには、敬服するのみである。




ちょっとでも面白いなーと思っていただけましたら、ぜひサポートよろしくお願いします!今後の活動の糧にさせていただきます◎ あろは!