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聖書の限りなくスピリチュアルな解釈1

クォ・ヴァディス
~聖書の限りなくスピリツアルな解釈
 聖霊による救いについて
 
 

 
 
新約聖書の『ヨハネによる福音書』13章36
 
同節では最後の晩餐の席でペトロイエス
「主よ、どこに行かれるのですか」(クォ・ヴァディス  )
と問い、イエスが
「私が今からいくところに、あなたは今いくことはできない。しかし、後からいくことになる。」
と答えている。
 
これは イエス様が当時のペテロに
自分だけが十字架にかかり
ペテロは裏切ってこの世に残ることを
予言した箇所である
 
さらにイエス様は別な予言をしている
「今日 鶏が鳴くまえに3度わたしを知らないというだろう」
 
これはイエス様がゆこうとされている道が命がけの道なので
命を捨てる覚悟ができたいないかぎり一緒に行くことができないが
あなたはその域に達していない
十字架から復活したイエス様に会うときは
命がけの決意をして死を覚悟して宣教を始めることを
イエス様が知っていたので
「許しの」クォ・ヴァディスであったのに対して
後日 ローマから引き返したときにアッピア街道で会ったイエス様の言葉は
「決意を促す」クォ・ヴァディスであったことがわかります。
 
ヨハネによる福音書 21章15節~17節
 
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、
「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。
ペテロは言った、
「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。
イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
 またもう一度彼に言われた、
「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。
彼はイエスに言った、
「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。
イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。 
 
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。
ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、
「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。
イエスは彼に言われた、
「わたしの羊を養いなさい。
 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、
思いのままに歩きまわっていた。
しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。
そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
 
 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、
お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた
 
 

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これと同じ内容として天国のカギという内容がマタイの福音書にあります
 
マタイによる福音書 16章19節
天国のカギをペテロに授ける
 
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。
そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。
黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 
 
わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。
そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
 
 
裏切ることがわかりながらイエス様がペテロに天国のカギを
授けている場面である
 
この天国のカギとは「十字架」による愛のカギのことであることが
コヴァディスの上記のイエス様の問答を見るとわかってくるのです
 
イエス様がペテロに授けた天国のカギとは「十字架」のことで
十字架にって地上と天上の間をふさいでいる障壁 
この障壁にあるドアのカギを開けるようになることを
示唆していることは自明だといえるでしょう
 
十字架にかかることしか天国の門を開ける手段がなかったのか
この
十字架の本質とは
受容(ワンネス)
許諾(ゆるし)
上昇(進化)
 
のことである
 
天国と地上界にある壁とは 「分離」という壁で 私たちの中で長い歴史を通して勝手に作り出された偽の現実のことです
 
私たちの中のマイナスの部分を自分で受け入れられなくて 切り取ってしまい
プラスの部分だけの自分を創り出してそれを「仮の自分」として自分の心のスクリーンにいつも投影しようと努力してきたわけです。
この切り取ってしまったマイナスの自分が「分離セルフ」 いわゆる宗教の言っている「悪」の正体です。
分離された自分も自分なので自己を投影することができます。
この 分離セルフが投影した現実が 悪なる現実として私たちにふりうかかってきているわけです。それはもともと私たちの中にあったもう一つのマイナスの自分で 自分の中に居場所がなくなって追い出されたので 大暴れしているわけです。これを「ネガティブの暴走現象」といいます。
 


 
この分離された自分をゆるし 受容し  自分の中に居場所を作ってあげることが「十字架」の意味なのです。十字架とは このように ネガティブを私のポジティブに釘付けする状態のことです。
この釘の役割を果たすのが実は「聖霊」です。
三位神とは 神とキリストと聖霊のことではなく ネガティブとポジティブと聖霊のことを言っています。
このように本来の自分を取り戻すことが新生の正確な定義となります。
 
 

 
ガラテヤ人への手紙 6章14,15節
 6:14
しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。
この十字架につけられて、この世はわたしに対して、わたしもこの世に対して貼り付けにされているのです。
 6:15
割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのです。 
 
ですので
「十字架によらなければ障壁の鍵は開けられないのか」
という問いに対する回答は明確だといえるでしょう
 
十字架の問題は「聖霊」によって解決するのです。
十字架は「聖霊」の代身に過ぎなかったわけです。
 
聖霊によってネガティブとポジティブを統合できた覚醒した自我を達成した人間を「人の子」とイエス様が表現しています。
 
それは この聖書を読んでいる人自身のことを指しているわけです。「あなた」が人の子としてやってくる
ということです。
この時代に人の子としてやってきた魂とは「あなた」のことなのです。
もっと正確に言うと 
終わりのときに聖霊によって統合された目覚めた魂である「あなた」は 自分が魂のアセンションに最も適した時期を自分で選んで生まれてくることができる。
だから その時その場所は誰も知らないが ただ「人の子」だけが自分で知っているのである。ということになります。

 
 
ヨハネによる福音書16章7節~13節
16:7
しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。
わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。
もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。 
16:8
それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。 
16:9
罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。
 16:10
義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。
 16:11さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。
16:12
わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
 16:13
けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
 
 16:14御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
 
16:15父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。
 
 
 
 


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ヨエル書 2章28節(現在の聖書では3章1節)
 
2:28その後わたしはわが霊を
すべての肉なる者に注ぐ。
あなたがたのむすこ、娘は預言をし、
あなたがたの老人たちは夢を見、
あなたがたの若者たちは幻を見る。
2:29その日わたしはまた
わが霊をしもべ、はしために注ぐ。
2:30わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。 
2:31主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。 
2:32すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある。
 
『クォ・ヴァディス: ネロの時代の物語』
 
(Quo Vadis: Powieść z czasów Nerona)は、ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチによる歴史小説
 

 
一般には単に『クォ・ヴァディス』として知られる。
 
1895年にポーランドの3つの新聞に連載され、1896年に出版された。1912年にサイレント映画化、
1951年ハリウッドで制作された映画『クォ・ヴァディス』が有名。
 
シェンキェヴィチはこの作品を執筆するのに先だってローマ帝国の歴史を綿密に研究した。
 

 
 
本作に歴史上の人物が登場してキリスト教以前の社会情勢を詳細に伝えるのはその顕われである。
 
日本語を含む50以上の言語に翻訳されている。この小説はシェンキェヴィチのノーベル文学賞受賞(1905年
に貢献したとされる。
 
「クォ・ヴァディス」とはラテン語で「(あなたは)どこに行くのか?」を意味し、
新約聖書の『ヨハネによる福音書』13章36節からの引用でもある
 
この言葉は、聖ペトロ(聖ペテロ)の運命を決めたばかりでなく、
その後のキリスト教の苦難と栄光の歴史を象徴するものとして作中のクライマックスで用いられている。
 
ローマに赴くキリストと邂逅するペトロ


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ローマ帝国におけるキリスト教徒への迫害は日を追うごとに激しくなり、
虐殺を恐れた者たちが国外へ脱出する事も当たり前になっていた。
 

 
 
ペトロは最後までローマにとどまるつもりであったが、周囲の人々の強い要請により、渋々ながらローマを離れることに同意した。
夜中に出発してアッピア街道を歩いていたペトロは、夜明けの光の中に、
こちらに来るイエス・キリストの姿を見る。
 
ペトロは驚き、ひざまずき、尋ねた。
 
 
Quo vadis, Domine?
(主よ、何処にか行き給う/主よ、どこに行かれるのですか)
 
キリストは言う
 
汝、我が民を見捨てなば、我、ローマに行きて今一度十字架にかからん/そなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう。
 
ペトロはしばらく気を失っていたが、起き上がると迷うことなく元来た道を引き返した。
 
そしてローマで捕らえられ、十字架にかけられて殉教したのである。
 
ペトロは死んだが、それはキリスト教の発展の契機となり、
彼はカトリック教会において初代のローマ法王とされている。
 
(この章の記述については、阿部知二他編 『西洋故事物語 上』 河出文庫 1983年 によった)
 
(原題Quo Vadis 「主よいずこへ」の意) 長編歴史小説。
 

 
 
上記のペテロが捨てようとしたローマがまさに ペテロ自身の長い間葛藤して追い出してきたネガティブセルフそのものだったのです。
本来はペテロを保護し広大な世界的道を準備するために苦労してきた第2の自分でありました。
これは イエス様自身についても同じことで イエス様が切り離してしまったネガティブセルフとはローマに代表される世界的な基盤を持った国家指導者たちであったわけです。
イエス様の中で生きている間にこの国家的世界的ネガティブを自身の中で統合することが出来なかったすべての思いをペテロに託したのがこのアッピア街道でのペテロとの出会いの場面です。
ペテロが初代法王としてローマをはじめとするヨーロッパのキリスト教国家を内的に指導するようになりますが 実はイエス様が十字架にかからずにローマで皇帝の精神的指導をする立場に立っていれば すでにイエス様が生きておられるときにイエス様の中で広大な霊的統合世界を現出することができていたわけです。
 
実は イエス様が最後の場面でこの大逆転をしてローマにまで影響を及ぼしてい行くために準備されていた人物がいました
それは当時のイスラエル総督として赴任していた「ピラト」です。
 
残虐無道なローマを再度十字架にかかってまで救おうとされていたイエス様の姿がこのコウヴァディスに描かれているのですが
実際に逆さ十字架にかかってまでローマを愛したペテロの姿を見るときに
まだ十字架にかかるまでのイエス様も これ以上にローマを愛する気持ちがあっただろうと容易に推測できます。
 
ですので 十字架直前にペテロの代わりにイエスの弟子になるべく準備された人物とは「ピラト」でした。ですのでピラトが同じ質問をイエス様にしたのです。
 
ヨハネによる福音書 19章9節
ピラトはこの言葉を聞いてますます恐れ 再び総督官邸の中に入って
「お前はどこから来たのか?」とイエスに言った。
 
ヨハネによる福音書 18章38節
 
私が王だとはあなたが言っていることです。私は真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆 私の声を聴く」
ピラトは言った
「真理とは何か?」
 
 
イエス様の中にある最も対極的なネガティブセルフがピラトなのです。
ピラトはすでにイエス様を許そうと考えて一緒に対策を練ろうとしている様子がヨハネによる福音書の随所に見られます。
 
この時 どうしてイエス様はこの目の前に存在している究極的な聖霊の準備した救いと統合の役事に気が付かなかったのか?
それはイエス様が自らすでに十字架を選択しそれを自らの進む道として確定していたからではなかったかと思われます。
このことによれば 
十字架とは神様の摂理ではなくイエス様の選択だった
ということがわかります。十字架とはイエス様の選んだ愛の手段だったということではないでしょうか。
神様と聖霊はこの十字架から逃れてまったく別の とてつもない大逆転の役事を準備しており そのことはすでにイエス様も生まれてくるはるか以前から アブラハムのイサク献蔡の状況における天使界と神様のやり取りからご存じだったはずですが イエス様の当時のすべての状況でこの十字架しか行く道を思いつくことが出来ないほど 暗闇に閉ざされていたというほかはないでしょう。
 
 

 
 
聖霊とは
本来の私自身が「無条件の愛」「真の愛」が本体であり正体であることをわたしに示してくれる 唯一の「もう一人の私」です。
私が現実界に生まれてくるときに魂の記憶をいったんなくして 現実界で自分自身を思い出す戦いと努力をするようになりますが このもう一人の私は肉体を持っていないので 本来の自分の魂と魂の根源である真の愛 無条件の愛そのもので存在し続けています。
ところが 地球人たちは長い歴史の中で現実界にやってきて制限された人生を送るうちに 低級な霊的世界に拘束されて この聖霊の存在を完全に自分の中から追放してしまったので 自らの中でポジティブとネガティブの統合ができ餡くなってしまいました。
分離した自分を自分とさかっくしているので その分離した自分の世界を投影した現実世界も同じように分離してお互いが闘い排斥しあう世界を投影し続けているのです。
この 本来の自分である聖霊を取り戻し 自分自身を統合できる道を開くために来たのがイエス様です。
ですから イエス様の役割はわたしに聖霊を取り戻させることなので 私に一番必要な弁護人であり導き手が聖霊であることがわかった後はイエス様は必要ない とイエス様自身がヨハネによる福音書の中で明言しているのです。
 
ヨハネによる福音書16章7節~10節
 16:7しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
 16:8それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
 16:9罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。
 16:10義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。
 
このように 長い歴史を通して私たちを救うために準備してきた
私の「救い主」「メシア」の正体とは「聖霊」のことであることがわかります。
また「人の子」とはこの聖霊の片割れ すなわち覚醒した自分自身のことになります。
このことはすでに旧約聖書にも多くの預言者によって明言されており
現実的に私たちを導く人間的な王の王という存在は「偽」の偶像であり「人」を崇拝したり依存したりしてはいけないと何度も諭しているわけです。
 
 
 

 
サムエル記 上 8章4節~
8:4この時、イスラエルの長老たちはみな集まってラマにおるサムエルのもとにきて、
 8:5言った、「あなたは年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。
 8:6しかし彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、 8:7主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。
 
8:8彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。
 
 8:9今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない」。
 
8:10サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、
 8:11言った、「あなたがたを治める王のならわしは次のとおりである。彼はあなたがたのむすこを取って、戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前に走らせるであろう。
 
 8:12彼はまたそれを千人の長、五十人の長に任じ、またその地を耕させ、その作物を刈らせ、またその武器と戦車の装備を造らせるであろう。 8:13また、あなたがたの娘を取って、香をつくる者とし、料理をする者とし、パンを焼く者とするであろう。 
 
8:14また、あなたがたの畑とぶどう畑とオリブ畑の最も良い物を取って、その家来に与え、
 8:15あなたがたの穀物と、ぶどう畑の、十分の一を取って、その役人と家来に与え、
 8:16また、あなたがたの男女の奴隷および、あなたがたの最も良い牛とろばを取って、自分のために働かせ、
 8:17また、あなたがたの羊の十分の一を取り、あなたがたは、その奴隷となるであろう。
 8:18そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。
8:19ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。
 8:20われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。
 8:21サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。
 8:22主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。サムエルはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、めいめいその町に帰りなさい」。

 
 
 
このように 内的な聖霊の居場所がまったくないような 外的道しか知らないイスラエル民族の姿をみて若し 王を立てたならこの民族は完全に人間の王に依存して自分の魂の世界を見失うことをサムエルは知っていたといえます。
ですから 民族の上に王様を立てたのはどこまでも化城方式であり方便であったので ある一定の期間 王様がおさめたら 王様から新しい福音を伝える方法を準備していたのが預言者たちの出現だったことがよくわかります。
私の本来の血統  すなわち神様の魂でありハイヤーセルフである自分自身の本来の血統とは誰か素晴らしい清いメシアという存在が持ってくるのではなく
本来のわたしである「聖霊」が源流であり そこに接ぎ木されることがイエス様の役割のすべてであったことがわかります。

 
 
聖霊にどうやって接ぎ木されればいいのか
 
聖霊とはわたしとは別な存在ではなく 
本来の私なので 外にあるものではなくすでに私に連結されていて 常にわたしと一緒にある存在です。私を救える存在はどこまでも「私」だけなのです。
なぜならば 私の世界の創造主は「私」自身であり わたししか創造主がいない世界に住んでいるからです。
 
 
 
私の中でも聖霊は 十字架の役割を日々しっかり果たしています。
すなわち
 
受容(ワンネス→承認)
許諾(ゆるし→感謝)
上昇(進化→喜びによって世界を移行する)
という3つの役割です。
 
聖霊は自分自身の内面の声としてそっとささやいているので 普段忙しく外界に対応していると この聖霊の声 いわゆる本心の声というものを無視して通り過ぎがちです。
私たちの自由意志と主体性を最も重要視する聖霊は
自らの意見を無理やりわたしに押し付けることは絶対しないのです。
ですから 日々 時間をある程度きめて 自分自身の内面を感じる静かな時間をもつ必要があります。
次に目の前におこる出来事が聖霊のメッセージであることを信じる信仰を鍛えなくてはいけません。
素晴らしい実力者のリーダーや宗教の教祖の言うことであれば誰でも信じることができるでしょう。
その信仰は実は信仰ではなく「依存」の可能性が高いです。
依存からは本当の進化やアセンションは起こりません。
また どんなに素晴らしい教祖であっても自分の外の存在であることは間違いないので あまり依存が過ぎると 旧約聖書の十戒に厳しく戒めている
「偶像崇拝」と同じことになってしまいます。
 
信仰生活の本質的テーマ=経験から聖霊の声を内面に感じる 
 
神様は私たちの日々の生活と経験に必要なことを掲示するのです。そしてそれを通してアセンションできる感情 究極的には「愛」という感情を聖霊が伝達してくれます。
この聖霊のメッセージを感じ取る作業が「祈り」です。
祈る内容の研鑽に使う資料が「み言葉」「真理」と言われる一群の膨大な資料です。
ここでとても大切な現実的テーマに「対話」という内容があります。
私たちの分離した内面のネガティブとポジティブの統合作業を聖霊が共助する場面を体験する作業になります。
相手を承認し 許し 受け入れ 自分の中で役割や喜びの意味を付与してあげる作業になります。
これは なかなか承認できない相手というのは 自分の中にあった承認したくない自分を分離した結果 その分離が現実に投影されて出てきた相手なので 相手を通して許せない自分を許して承認しているわけです
この許し受け入れる作業を対話する以前から自分の内面で何度も許すというフレームワークを行ってみると だんだん必要な愛情的要素が聖霊から付与される体験をするでしょう。このような聖霊体験こそ救いが現実化されている実証となります。
 
 
こうして 簡単にまとめてみると
経験と祈りと対話によって私たちは自らで自らを再生救済することができます。
そのような聖霊の働けるエネルギーの高い時代背景を選んで生まれてきているのです。
自分の所属する宗教や教会ももともとは生まれてくる以前からの自分の選択なのです。
予定論ではなく 自己選択論なのです。
自己で選択したからと言って 生まれてきた後はほとんどその選択した事実を忘れていますので その都度その都度自己で選択する自由意思で選択しますが
その選択の結果 本来計画していた自分の人生設計からあまりにかけ離れた選択をしないように 私の人生にはこの人生計画を前もって共有したガイド役の同行者が12名以上はいるといわれています。
宗教の教祖やとてつもない指導者に出会ってその組織に現在所属しているとすれば そのリーダーは間違いなく私のガイド役として前もって準備されていた方となります。
しかし あくまでもその方は私のガイド役であって「聖霊」自身になることはできません。
あくまでも聖霊の代理的補助的役にしか過ぎないのです。
 
あまりにもこのリーダーに私の人生におこるすべてのことをの解決を依存するとそのリーダーはいつか私の内面世界から脱出してしまします。
なぜならば その役割は「聖霊」だけが受け持てるからです。
 
現実的な結果を見ると神様が召命してここに来たかのように見えるのです。
それをもっと魂の次元にさかのぼると すべて前もって自分で設定し自分で選択しているのです。
 
自らの選択と意思と信仰をもう一度思い出し 信じ切って聖霊の声に委ねて人生を歩めるのです。神様は私たちの世界に無理やり干渉しません。
どこまでも私たちの世界のすべての主導権と創造権は私自身という宇宙の法則を守っておられるのです。
 

 
 
ポーランドの作家シェンキェビチ作。
 
副題「ネロ時代の物語」。一八九六年刊。
青年貴族ウィニキウスと人質にされたリギイ族の王女リギアの恋愛を中心に、暴君ネロ治下のローマにおけるヘレニズム文化とキリスト教信仰の対立抗争を描く。



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