忍従だけでは世の中は回らない
最近ツイートを見て、このような言説があった。
「社会は中学校則より理不尽だ」の言説はそれ自体の当否問題の他(“社会”で髪型チェックされることはあまりありませんしね)、生涯の人格形成に大きく関わる青少年期に『忍従』の態度を刷り込ませる点に問題があるんですよね
— プリキュ (@nekolovercat) November 13, 2020
本来あるべき個々人の権利主張を捨てるべく“教育”しているのが日本の学校
中高生の頃は、世間を知らなかったので、感じなかったが、大学に行ってから、非常に、忍従だけでは、世の中はうまく回らないということを考えさせられるようになった。
確かに、忍従が必要な時もなくはないけど、それと同時に有効な策を考え、そのストレスの状況から脱しなければならない。そのためにあたりを考えるためには、個々人の権利主張が必要になってくるのではないかと思う。
そして、忍従だけを行なっていた場合、元々の問題がなんなのか、徐々にわからなくなって、最終的に、破局的な状況に遭遇せざるを得なくなるだろう・・・。
あの時、キチンというべきだったか。道は一つではなかったはず、別にあの大学の院に進学する必要もなく、就職という手もあったし、別の大学院を探すという手もあった。わざわざ、無意味に耐え続ける必要もなかったし、大学の外に出た後、考えてみると、あそこにいたことでのメリットよりもデメリットの方がはるかに大きかったのではないかと思ってしまう時がある。研究よりも雑用ばかりで、問題ある後輩を押し付けられるだけ。
人とのコミュニケーションは大事だけど、大学院が何たるかを考えれば、決して、あのやり方が正しかったとはお世辞には言えなかっただろう。
修士以降に別の研究室に入った。興味ある研究があったから、博士課程に進むことも希望はしていたよ。デメリットは聞いていたが、あれは所詮はブルジョアや保守のプロパガンダに過ぎないとしか思っていなかった。結局、今までの生活が重要だということだけが独り歩きして、世の中が見えていない。ポスドクもただ大変だと愚痴をこぼすだけで、本当に対峙すべきことをやっているのだろうか?
実際、研究がなければ、新しいものは作れないのだから、企業や社会がどうであれ、やりたいなら、やってもいいと思うのだが。
問題は、そういった純粋な気持ちで進む人間を利用する奴らがいることだろうな。そういう奴らは自己利益のために、人を誘い込むということをやる。
そういった感じのことに遭遇した際に、必要となるのは、忍従だろうか?
それとも、問題を回避して、よりよい、方向に話を持っていくことだろうか? 果たして
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