絵画の海に

今日も自転車を漕ぐ。越してきてまだ1ヶ月ちょいの土地を、さも地元ですよみたいな顔をしながら漕ぐ。東京に住んだ経験はあれど、元は田舎育ちなので、そしてここと地元の田舎ぐあいが同じぐらいなので、特に何の抵抗もなく、自転車を漕ぐ。売地なんだか畑なんだかよくわからん、土に草が生えまくった景色を横目に、好きな音楽を聴きながら自転車を漕いでると、高校のころを思い出す。厳密にいえば、この町でこんな音楽聴いてんの私だけだろなと思ったところで、そういえば昔もこんなこと思ったことあるわと思い出したんでした。

中、高ともにチャリ通で、高校は一人で通学してたから、ちょっと大通りを外れたところからイヤホンをして、好きな音楽を聴いて帰ってた。んで多分高二のときにthe cabsに出会って、それはもう私の価値観にえぐい入り込み方をしてきたもんで、もちろん通学のときはそればっかりだったから、自転車漕ぎながらキャブス聴くともうあの時の感傷がそのまんま蘇ってきます。間違いなく、この町でこんな音楽聴いてんの私だけ。知ってんの私だけ。好きなの私だけ。どこにも行けねえ、何にもなれねえ小さくてつまんない町で、私はこんなにかっこいい音楽を知ってるんだってことが、そしてそれを誰とも共有できないことが、私をたまらない気持ちにさせてくれた。好きな音楽聴いて自転車漕いでる時だけは、私が一番最高だった。

結局、上京して、東京の大学の軽音サークルに入ってみたら、高橋國光というワードはもはや共通言語で、なんだかちょっと残念な、負けたような気持ちにもなった。ラッドとかamazarashiとかはパソコンの前とか布団の中で聴くことの方が多かったから、それはそれで別の感傷が蘇るんですが、それこそ私が中学んときにはもうそこそこ有名だったから、この町でこのアーティスト知ってるの自分だけっていう優越感はキャブスが唯一無二だったなと思う。大人になった私は、もう学校に行かなくていいし、お金も自由に使える。沢山の新しい言葉を覚えたし、一応一通りの家事だってできるようになった。だけどこの全能感はずっと変わらん。17歳のときと全く同じ、この町でこんな音楽聴いてんの私だけ。今日も自転車を漕ぐ。

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