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「持ち堪えてしまう」苦悩

新卒が飛んだ。つい先日顔を合わせた時は特に変わった様子もなかった。唐突だった。それから彼女は一切の出勤を拒否して、彼女の荷物だけがそこに取り残されていた。

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高瀬隼子『水たまりで息をする』を読んだ。

ある⽇、夫が⾵呂に⼊らなくなったことに気づいた⾐津実(いつみ)。夫は⽔が臭くて体につくと痒くなると⾔い、⼊浴を拒み続ける。彼⼥はペットボトルの⽔で体をすすぐように命じるが、そのうち夫は⾬が降ると外に出て濡れて帰ってくるように。そんなとき、夫の体臭が職場で話題になっていると義⺟から聞かされ、「夫婦の問題」だと責められる。夫は退職し、これを機に⼆⼈は、夫がこのところ川を求めて⾜繁く通っていた彼⼥の郷⾥に移住する。そして川で⽔浴びをするのが夫の⽇課となった。豪⾬の⽇、河川増⽔の警報を聞いた⾐津実は、夫の姿を探すが――。

あらすじより

この爆裂おもしろいあらすじに誘われて即購入した。高瀬隼子の作品は他にもいくつか読んだことがあって、これまで彼女の作品に対して感じた言いようもない感情の正体とか、毎日感じる漠然とした苦しさの根源とか、それら全部が腑に落ちるような言葉がここにあった。

以下ネタバレを含むのでどうか本作を読んでから進めてほしい。2時間足らずで読めます。

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冒頭はあらすじを知っていたから、急かされるように読んだ。早く結末が知りたくて何度もページの上を目が滑った。

だけど電車の中、仕事からの帰り道で、気が付いたら私の目が涙で滲んでいた。主人公の苦悩が他人事だと思えなかったからだ。

うちに勤めていた新卒が飛んで、そこから数々の協議がなされて、私にも問題があったのかもしれないと思って、結構苦しかった。何が彼女を苦しめたのか、そこに自分はいかように加担してしまったのか、そもそもそれに気が付いていない時点で、自分の無意識における加害性をはっきりと自覚した。

そして何より、自分を渦巻く感情の中に、得体の知れない苛立ちや、何かを責め立てたい気持ちがあることに気が付いていた。

そんな時にこの本を読んだ。ようやく分かった。今私の周りを取り巻いている「私の若い頃はそんな甘くなかった」、「そんなんじゃ務まらないよ」も全部、『わたしだったら我慢した』だと思った。そうだ、私は彼女の弱さが許せないんだ。

弱い人間ではない私は結局持ち堪えてしまう。狂えない私は普通の人間だ。次の電車が来たらホームに飛び込もう、次でやろう、次こそやろうと何度も何度も電車を見送ったって、実行しなかったのならば結局何もなかったのと同じことになる。誰かに「この間死のうと思ったんだよね」なんて話をすることもなければ、私は普通の、ごく普通の人間になる。何度仕事を辞めようと思っても辞めなかったのならば毎日は変わらないように、心の中でどんなことを思っていても言葉にして相手に伝えなければ何も変わらないように、実際に行動しなかったのならば、他者から見たら何も思っていないのと同じことになる。

両親が別れた時もそう、実家がなくなった時もそう、親友を失った時もそう、よくない上司に当たった時もそう、朝から晩まで予定をぎっちぎちに詰めて、ぶっ倒れるまで動き回った。ぶっ倒れたいと思ってたから。このままじゃ倒れる、死ぬと思いながら働いた。手が震えたし動悸がしたし熱ばっかり出して声が出なくなったりもした。でも結局私は倒れなかった。仕事を休むことすらしなかった。朝になれば目が覚めて、自然と体が動いた。家に帰れば、ご飯は食べられなくても、眠れなくても、お風呂に入って、ベッドに入った。メンタルに支障をきたすとお風呂に入れなくなるとよく聞くけれど、私はお風呂に入らなければ寝られないから、お風呂には必ず毎日入った。お風呂に入る気力がない時は床で寝た。翌朝にはお風呂に入った。いつお風呂に入れなくなるんだろうとずっと思っていた。私は持ち堪えてしまったんだった。

だから新卒の彼女が来なくなった時、なんで?と思った。彼女がどれほど辛かったのかは彼女にしかわからないというのに、私は心の中で相手の苦悩を勝手に値踏みして、ああだこうだ解釈してるんだと思った。最低だった。自分の加害性はここにあると思った。今目の前に彼女がいなくて本当に良かったと思った。

結局彼女は退職ではなく、私たちの隣の部署で働いているらしいことを聞いた。隣?すれ違うよそんなんと思った。彼女が行ったのは、私たちに対する徹底的な拒絶の意思表示だった。私はどこまでいっても彼女の弱さに寄り添えないと思った。私たちの部署にいると吐き気がして体調が悪くなるので出社できませんという彼女の、その弱さの、ひとつも許容できないと思った。

小説はそんな二人が、ある女性の「弱さ」に苛立つ様を描く。必要な業務を満足にこなすことのできない女性の「弱さ」を、「普通」に生き延びられてしまう二人は許すことができない。二人にとって「弱さ」はそれ自体、生き延びてしまう自らへの攻撃のようにさえ感じられるものなのだ。

解説より

羨ましい、ともちょっと違う、軽蔑、ともちょっと違う、見下しているわけでもない、そう、この感情は「許せない」だった。もしあの時本当に電車に飛び込んで、死んでいたら、私の辛さは誰かに認められたんだろうか。そうか、あの時の私の辛さを、この世の誰も、知らないのか。彼女の辛さはみんなが知っていて、みんなが配慮をしているけれど、私の苦悩を、知っている人は、この世に一人もいないのか。

それでも、高瀬隼子が、こうして、持ち堪えてしまう人の苦悩を書き続けてくれることで、初めて私は、"他人の「弱さ」を許容できない自分自身"を認識することができたんだと思う。

だから私は、彼女や、もっと身近な誰かが狂っても、決して私の過去が否定されるわけではないことを改めて強く認識していたい。そして苦しさや悲しさに大小はなくて、誰かと比較できるものでもないことを胸に刻んでいたい。

高瀬隼子の他の著書『おいしいごはんが食べられますように』や、『いい子のあくび』で感じた胃もたれするような悪意、受け入れ難いと感じる行為、そういうのがストンと腑に落ちた作品だった。中でも『いい子のあくび』の主人公の考え方や行動はほとんど自分のことが書かれているかと思ってちょっと焦った。

もっとも、いい子を演じている、持ち堪えてしまう私たちは、化けの皮が剥がれてしまっては困るのだから、この本よかったよ、なんて誰かに勧めることは絶対にしないんだろう。

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