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思い出したくない駅

もうその家に行く以外には何も用途がないような駅のことを考える時間が、彼にもあるんだろうか。大学の頃半同棲していた恋人の家があった駅のことをたまに思い出す。もうその家がなければその駅には行かないだろうと思うような、そんな駅のこと。

もうあなたは忘れただろうけど、今日雨の中傘を差して街を歩いていたら、三軒茶屋には喫茶店はひとつしかないってわかったんだ。もうあなたは私に話したことを忘れただろうけど、あなたはこの街を歩いて、どんなことを思い出すの?

その駅、その駅に、その人、その人との思い出があって、それは冷凍保存されてるみたいに、そこに立った途端に溶け出す。ろくなお葬式もしなかったもんだからそれは突然で、当時の温度のまま動き出す。そんな胸がギュッとするような瞬間を、彼は、何度経験したんだろう。そしてそれを悟られないような顔をして、何度やり過ごしたんだろう。私の隣で、私にばれないように上手く取り繕った気になっている君。あなたはさ自分が嘘をつくのが下手だって知ってるはず、そしてそれを私が知ってることも知ってるはず。じゃあもう私ができることはあなたを抱きしめることだけだね。

こんなに素敵な服や、メイクや、髪型を纏った人たちが、次々と通り過ぎては消えてゆく、ああ私はこんなまつ毛をぶら下げて、早くサロンの予約入れようって思う。東京に来てから最近ずっと、自分の容姿が、他人に不快を与えているんじゃないかと思ってどうしようもない。ひとつひとつ潰していくしかないから、焦らない、と頭の中で復唱して、スマホをカバンにしまう。嫌な思い出があんまりにも多すぎる。あの時の私があの時のままそこで苦しんでいる。またひとり美しい人とすれ違う。あなたが一目で心を奪われるほどの、あなたの好きだった美しい人。その人は、どんな風に、この街を歩いたんだろう。

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