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平成元年①

 1989年1月7日、長い昭和が終わったが、昭和から平成への変化は、平成から令和へのそれとは比較にならないほど大きかった。


①平成元年4月~6月

日本はバブルの最盛期で、このままいくとGNPが米国を抜き、世界一になると言われていた。一方、中国はまだ貧しい国で、中国人の多くは自動車ではなく、自転車に乗っていた。


この頃、日本人が中国を訪れると、中国人はもてなしてくれた。日本人の対中感情もよく、1988年の世論調査で日本人の7割が、中国に親しみを感じると答えている。この年の前年(1988年)、日中平和友好条約10周年記念式典があり、日中関係は、これからも良好な状態が継続するとの予想が出ていた。


ところが、この年の4月に、「中国と日本は世界の2大国家だ。」と言っていた胡耀邦が亡くなると、状況が一変する。改革派の胡耀邦に代わって保守派の台頭が予想され、 改革派は危機感に駆られて街頭でデモを開始した。
6月、連日のデモに業を煮やした、最高指導者の鄧小平は武力弾圧を命じる。当時のTV には5000人が死亡というテロップが流れた。 鄧小平は「中国では100万人など問題ではない。」と発言。「日本は礼節の国」と言っていた鄧小平の、日本での評価は地に落ちた。

結果は保守派の勝利に終わり、日中関係の悪化と日本経済の悪影響への懸念を残した。

 
 ②平成元年6月

 ハンガリーは共産主義の国だったが、一党独裁を放棄し、その後、中東欧の共産主義諸国は秋までに共産圏から離脱した。
 東ドイツも共産主義でなくなり、翌年、西ドイツと統一。それまでドイツは存在感がなく、その分、日本のプレゼンスが大きかった。
(下図はGNPの規模。まだGDPは、一般には使われていなかった)

 ③平成元年7月

 平成最初の参議院議員選挙があった。野党第一党だった社会党(現社民党)の改選議席が自民党の議席を上回り、自民党は参議院で初めて、単独過半数を割った。マスメディアは、この時も野党寄りだったから結果を好意的に報道したが、街の声では「不愉快。日本はダメになる」という意見もあり、歴史は街の声が正しかったことを証明したと言える。
 この選挙結果で辞任した宇野首相には2つの下半身スキャンダルがあり、愛人の指を3本握り、「1ヶ月にこれでどうだ。(月300万円で愛人契約)」と言ったというものだけが報道され、もうひとつは噂が流れただけだったが、怒った女性達が野党の女性候補に投票し、多くの女性議員が誕生した。
 自民党の単独過半数割れの結果は、この年の世界の重大ニュースとして年末に報道されるに至った。


 ④平成元年12月

 日経平均は3万8900円を超えた。参議院議員選挙の結果や海外の大きな変動を考えれば、その状態が継続する筈がないのに、当時の投資家の多くは、そのことに思い至らなかった。


 この年は文字通り、激動の1年であり、1回では語り尽くせないところであるが、いったんここで終わることにする。お読みいただき、ありがとうございました。


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