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4月4週目(後)

前回はこちらから。

23

フルで授業をした1週間が終わる。まだ慣れていないから、足に溜まった疲れがすごい。足の疲れが全身のだるさや思考の短絡化を引き起こすと考えると、どうやって疲れをとって次の日に臨もうか、と思う。体はともかくとして、頭が回らなかったり、反応的になってしまうと、思い通りにいかなかったことへのもどかしさ、しんどさがある。それに、反応的になることは、「反応的になる→ああ、やってしまった」のループに飲まれる。
例え週の後半、特に金曜日になっても頭も体もリフレッシュした状態で仕事ができるようにしたい。どんなにしんどくても、それを悟られずに仕事ができてこそ、だと思う。

24

前田さんのセミナーへ。1年数ヶ月くらいぶりに会えたが、顔と声は映像越しに見たり聞いてたので久しぶり、という感覚は少しだった。それでも、本物が目の前にいると、すごく久しぶりだと感じる。

「見た目だけトレースしても意味がない」
初心者が真似して得られるものは少なく、特に「思考」の部分。確かに見た目を作る「造形」はある程度成長できるけれど、中身が伴わなくなる。目で気づきを得て、感性をひたすら磨いて、形にしていく。

思い返すと、ぼくもそういったところがあった。外見だけ真似しても、その根底の部分や中身の部分、もっと言えば始めた人の哲学までは真似できない。だから、どんなに見栄え良く作り上げても、中の柱がぐらっぐらだったなんてことは否定できない。
マーブルタウンもそう。やってること、すなわち見栄えが「すごくいい!」と思って刈谷で初めた。初回は仕方ないことではあるが、形式を辿ったという部分は否定できない。そこから先、自分たちの哲学を作るには、自分の目で見たこと、確かめたこと、それからその蓄積から生まれる感性…。そういった「生」の経験が必要で、外面を繕っていては、見た目はいいかもしれないけれど、「誰がやっても同じ」、要はただのハリボテになるんじゃないかという怖さがある。
これまでも企画を立てたり、辿ったときに思ってはいたが、中身のない真似事だと自覚できることほど、どこか「空虚」だと感じていた。そして中身を掘り下げられなかったことから生まれるモヤモヤと共に心中してきた。
そのモヤモヤを解消するには、ここに至るまでの経験を自分ごとにしてきたか、それから出来事や感情を言語化してきたか。見える形ではっきりさせておくことで、思考が深まる。元はといえば、この日記を始めたのもそういう理由だった。
あとはこれ。ぼくは一体どれだけのラッキー、運命、それから奇跡でここまで来れているのか。

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午前中は昨年のこの時期に始まった「せんぱいボイス」という媒体の原稿を作成。

元々は休校になっていた昨年のちょうどこの時期に、大学生から高校生へのアドバイスを送ろう、という名目で始まって、時が流れて再スタート、という流れだ。進路指導の媒体はたくさんある中で、僕らがやる媒体のポイントは「学生が学生にインタビューして、記事も作る」ということだ。
学校で配布される印刷物がどう作られているかまではわからないが、少なからず「大人」の編集が入ると考えている。どんな文でも、編集の手を通ることでその人の意図が入り込む。この媒体では、そこまでを学生に委ねる。年の近い人に考えを伝えるには、年の近い人が伝えるのがいいと考えている。年長者だと思われて説教がましく聞こえるよりは、近くのお兄さん、お姉さんの話のが聞きやすい、という感覚を、この媒体では大事にしたい。

これまでの振り返りはこちらから。


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