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誰もが皆、己を生きている-『一月の声に歓びを刻め』鑑賞・対談

はじめに

12月7日、エリックゼミにて
三島有紀子監督 『一月の声に歓びを刻め』
特別上映とディスカッションを行いました。

2月に公開される映画を、特別に公開前に上映していただき、加えて監督ご本人を交えてディスカッションという、またとない豪華な機会をいただきました。

三島監督、東京テアトルの皆さま、その他映画に携わっている皆さま、

このような貴重な機会をいただき、大変ありがとうございました。

三島監督と、松永エリック教授、エリックゼミの学生たち


生きることが、何を成すのか。
映画が魅せてくれたこと

誰が被害者で、加害者なのか。
あるいは、見ている側にとっての被害者・加害者たちは、自身をどこに位置付けて捉えているのか。

見る人によっても、シチュエーションによっても、あるいは全く同じシーンを方向性を変えて見てみるだけでも、登場人物たちの位置付けが変わってくる。そのような多面的要素が織り込められた映画でした。


ディスカッションの中でも話があがったことですが、映画のキーワードのひとつに「赦し」というものがあります。

誰かの罪を赦す、というのは、本来キリスト教的な概念です。

映画を構成する3章すべてに、「過去の罪」がありました。己の過去の罪を赦し、前へと歩みを進める登場人物たちに心を押される、そんな映画でした。


性被害がテーマにあったのも、3章を通した共通項でした。

性被害を全くの第三者の視点で捉えたとき、性加害をした方が加害者で、受けた方が被害者という捉え方になるのは、ごく自然なことに感じられます。
ですが実際はそんな単純ではなく、
性加害にあった人の多くは、自身に自責感や罪悪感を抱くとのこと。
「この行動が、犯罪に遭ってしまった原因だ」あるいは「けがれた」などと受け取る人も少なくない、と知りました。

性加害はれっきとした犯罪ですし、許されることではありません。当然、簡単に「赦す」こともできないはずです。


でも、もし自分を責めてしまう性被害者がいるならば。ここに「赦し」の力を信じたい。


もしかしたら赦す相手は、
自分かもしれません。



みんなが加害者かもしれないし、被害者かもしれない。両側面を抱えて生きています。自分の人生を、他人の人生との相対関係を無視して捉えることは、この社会の中ではなかなかできません。相手によって、自分は時に被害者で、時に加害者です。

そうなると、誰を赦すか、なんて、
そんな問いへの正解は存在しないのかもしれません。


だから。

自分を、赦す。まわりの人を、赦す。

このようにして、
人生の節々は往々に救われていくのだと思います。


私自身には、性被害経験がありません。

そのような経験をした人は周りにいます。
その経験を聞いて、理解に努めたとき、
私がどう足掻こうが、本人の感情を100%で理解することなど出来ません。

自分の経験則からしか生成・派生され得ない想像力をもってして、その範囲内に押し込めて「理解する」など、もはや、ある種の愚行なのかもしれません。
「理解される」ということは、ある人には救いで、ある人には蔑みなのだろう、と思います。


となると、私にできることは、一体何なのだろうか。
生きていて、今この時間を過ごしている意味などあるのだろうか。

そう考えてしまうことも、少なくありません。
むしろ、この世の中ではしばしば問われることです。

その悶々とした疑問に、この映画は一つの提案をしてくれた気がします。


「赦し、そして、歓び」



すべての生命存在に、赦しを。
そして、歓びを。



まずは自分に歓びを。
そして、他の人生に、赦しを。
人々の歩みに並んでみたり、背中を後押ししてみたり、こっそり応援してみたり。

今わたしにできることは、そういったことなのかもしれません。


それぞれの人生を、誇らしく。
生きとし生けるものが、誇らしくあれる世の中を願う。


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