渚カヲルは何の象徴なのか考えてみた

シンエヴァンゲリオンを見た上での考えになる。



エヴァをみていてどうしても何を象徴しているか、正体は何なのかがわからなかったのは渚カヲルだ。Qまでは本当にいくら考えてもわからず、シンエヴァンゲリオンを観にいくまでも渚カヲルのシーンだけフィルムブックで復習していったのだが、シンエヴァまで観たら、やっと少しだけわかった気がする。

アニメ版の方では、渚カヲルは綾波レイに「僕と君は同じだ」と言う。シンジが惚れ惚れするくらいに、彼はシンジのことを愛してくれる。でも人類補完計画のために使徒として消滅させられる。Qでもおおまかな流れは同じで、ゲンドウが裏で手を回し人類補完計画を完遂するためにカヲルの首が飛ぶことになる。

シンエヴァンゲリオンではカヲルがシンジに対しても「僕は君と同じだ」と言う。その時はじめて、私の中にもカヲルはいるなあと直感で思った。

シンエヴァをみるまでは、カヲルはものすごく距離の近い他人のことだと思っていた。でも、ほしい言葉をくれすぎるため不自然な存在だと思っていた。だから結局なんなんだろうと思っていたが、シンエヴァをみたらそこの謎はとけたというか(解釈があってたらだけど)、自分だからほしい言葉をあげられるということなのかなと。自分を一番見ている存在であり、そうやって見ているからこそ他人には気づけない自分の好きな部分や良さを肯定してくれる存在。つまり自己愛を象徴した存在なのかもしれないと感じた。

自己愛というのは、自己肯定と似て非なるものである。自己肯定ができていないほど、自己愛は強いと言われている。例えば、自己肯定ができていないほど自分はすごいと思い込むことで正気を保つ。自分はこんなことができるのだと他人に誇張するケースが多い。自己肯定感が高い人も自分の力を誇示することはあるが、それとは別である。自己愛と自己肯定感の違いとしては、自分の中にいる違う自分に否定されたら簡単に崩れるものが自己愛、崩れないのが自己肯定感である。

カヲルは、いずれ消失する存在として描かれる。それも庵野さんの中のもうひとりの自分であるゲンドウが遂行しようとする人類補完計画のためである。人類補完計画の完遂は庵野さんの自殺を象徴していると考えると、人類補完計画を進めるゲンドウによってカヲルが使徒として捉えられ消されるというのは自然である。自殺願望と自己愛を並べると、どうしても自己愛では勝てない。

シンエヴァでは、カヲルが消失したことを克服し、父と対峙するシーンではミサトの死さえ受け入れ、もう自分は大丈夫なんだと、逃げることはせずに心がぐらつくこともない姿を見せる。このシンジには、自尊心がちゃんと備わっている。カヲルがいなくても、自分の足で立てるということだ。

そしてラストシーンでは、日常の中にカヲル(レイも)が存在する。しかし、駅の反対のホームにいて、近くにはいないようだ。レイとカヲルが同じなのは、替わりがいくらでも存在するということだろうか。庵野さんの思うままに死んでは生まれる概念。精神世界中心の視点から日常へと視点を変えることで、レイもカヲルもあまり重要ではなくなっているととれるかもしれない。

日常の世界には他人であるマリ(=安野モヨコ)が一番近くに存在するから、シンジがカヲルやレイにべったりくっついて心を満たす必要もないという部分がものすごい成長だなあと思う。漫画版でも、「なんでも無い日常が何より尊い」という締めくくりだったし、そこが庵野さんからのメッセージなのだろう。

漫画ではマリの意中の相手は碇ユイであったため、正直シンジとマリというのは予想外だった。しかし、どこまででも迎えに行くという深い懐をもつマリと、誰かの支えがあってこそ生きられるというシンジの相性はとても良いのだろうなあということがシンエヴァ全体を通して伺えた。アスカとシンジは似た者同士だから惹かれ合ったのかもしれないけど、共感はできても関係を続けることは難しいのだろうと感じた。綾波レイはもう絶対一緒になることができない過去の女性だし。結果的に、自己愛や共感や過去の愛にしがみつくことはやめてマリと一緒になれてよかったね、シンジくん、庵野さん。


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