実践練習か理論座学か~努力・才能・環境・運

これと直接関係あるわけじゃないけど、↓を見て思い出した話。
サンデル教授が語る「大卒による無意識の差別」 「努力すれば成功できる」という発想の問題点 | リーダーシップ・教養・資格・スキル - 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/422935

この話題はこの話題で面白いと思うので興味ある人は読んでみるといいと思うけれど。

で、書こうと思ったのは馬術の話。
結論から言うと座学(理論)と実践は両輪でどっちも大事だと思うのだけど片方を過信して片方をバカにする人とかがたまにいるので、馬術部の後輩にはたまに自分はこう考えてるって話をしてたのでその紹介。
同じ考えは馬術以外のことにも、また理論と実践という話題から外れることでも役立つかもしれないしね。

さて、自分は運動苦手な方で、例えば未だに鉄棒で逆上がりに成功した回数が0回なんだけど、大学から馬術をはじめて、スポーツやるのに理論的な背景考えて取り組むことの面白さを理解していろいろやれるようになった。まぁ、そこでその理論/座学の効果と限界みたいなのを教える立場から考えることになって、紆余曲折を経て現状の考えがそこそこ安定してきたので。それでもあくまで現時点での結論になるけれど。

座学・理論で出来るようになることは
『目標の明確化』『目標の段階化』『ベクトルの設定』
『手段と目的のつながり』『道筋』
『分析力の向上』『情報の分解力の向上』『見る力の向上』
こんなところ。似通ってるものは近くに書いてあるから簡単にまとめると『努力のベクトルを定める』『わかるようになる』の2つって感じかな?

で、実践で出来るようになることは
『身体操作』『反射的行動』『筋力の向上』
『身体感覚の向上』
ざっくりいって、『筋肉・神経系の最適化』

目標が定まっていないと最適化できないし、目標がわかっていても実際にやってみないと肉体・反応は追いつかない。さらに言えば、話だけ聞いてもそこに近づいていなければ読み解けなかったりするし、理論的背景を知らなければ実践で得た成功体験が勘違い/解釈違いで変な癖が強化されたりしてしまう。
どっちも大事というのはそういう意味で、だからってどっちが先かではなく交互に繰り返しやりながら先を目指すものになるんだと思う。

で、これをなんで上のリンクの話で思い出したのか、ってところに戻る。
座学にしろ実践にしろ、それを高めるために努力し続けるものだけど、ある段階を破って少し上の感覚を掴む、出来るようになるためには【偶然うまくいった一回】が必要になる。その一回がなければ掴めないから。
努力というのはその偶然が目の前に来たときにできるだけ確実に捕まえられるようにするのと、できるだけその偶然が起きる確率を上げるためにするものであって、いくら努力をしたとしてもその一瞬がたまたま来なかったり、たまたま逃してしまったりしたら結果がついてこない。
環境もまたその確率に影響するけど、努力でなんとかなる環境となんとかするのは難しい環境の違いもある。才能も、特定の要素の得意不得意が噛み合えばこの偶然を掴む確率が上がったりするけれど、噛み合うかどうかは運要素が強い。
だから、その『今の結果』を見て自虐的になったり、驕って仲間を貶めたりする意味はない。

上手く行った人の多くはそれ相応の努力をしているので、自分の努力の結果うまく行ったと思いがちになる。いや、実際それはそれである程度正しいのだけど、そこから【だから上手く行っていない人は努力が足りないのだ】という発想になってしまうとそれは大きな間違いになる。
偶然性・幸運の要素は大きくて、ときに努力を容易に上回ることがある。努力の種類も様々で結果的に間違った努力が徒労に終わってしまうこともあるし、間違った努力と思われていたものが実は正解だったということもある。そしてそこから出てきた成果が集団に対して大きな利益を生み出すこともよくある。
これがわかっていれば、なんらかの視点で上手く行っていない、行かなかったケースに対して積極的に切り捨てる態度を取ることは間違いだと分かるはずだし、【選択と集中】なんで馬鹿げたことに未来はないことも分かる。もちろん、かけられるコストは無限ではないのでどの程度が適切かというバランスの問題は常に残るけれど。
税制度で逆進性が嫌われ、累進課税が推奨されるというのもこの方面から読むことも出来て(普通はもっと別の方面から推奨されるので詳しくは別途解説探してくださいな)、成功者が『偶然』の力を忘れて累進課税を否定すると何が起こるかといえば、挑戦者が減って順に成功者が減るので社会が衰退する。もっと色々あるけどね。

色んな話で話題になる時は、何か一つが大きくクローズアップされやすくなるけど、本当に大事なのは、地味でわかりにくいバランス問題で、そういうはっきりした明瞭な答えの見えないものに対してわからないまま向き合い続けることなんだと思う。

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