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アパート【#4】

 りんの母親が専業主婦なのは、もう1人の娘がひどく病弱だからだ。医療器具のレンタルがあるから家族みんなで家で過ごせるが、彼女は学校などに通ったり出来るほどの元気はないし、常に目は離せない。
 在宅の介護は大変だ。旦那や自分の兄弟たちの理解があり2人の母親として頑張ることができている。
何より母親としての覚悟と愛情は誰よりもある。
 2児の母親は強い女性だった。

 上の娘と旦那が朝家を出たらこの部屋には女2人だ。
このアパートに変な住人は居ないし、空き巣や強盗が入ったという事もない。
 それでも念のために日中は玄関の鍵は閉めている。

 専業主婦はやることがたくさんだ。家事に完璧を求めて仕舞えばその分やることはどんどん増えていく。
 それに加えて下の娘の介護をし、本を読んであげたり髪を結ってやったりする。可愛い可愛い娘達にはどれだけでも時間を割いてやりたい。
 そうやって毎日を過ごしていれば時計を見ずとも正確に時間配分ができるようになった。いつも通りに家事をこなし娘と過ごしていれば、りんが帰ってくる時間に玄関の鍵を開けておいてやることくらい訳はない。
 娘の下校に合わせて鍵を開けるのも最早習慣とし根付いた。

 このアパートは洗濯機の設置はベランダにしかできない。4人家族なら毎日洗濯機は必ず回す。
それも2層式の洗濯機がまだまだ現役。洗って脱水、濯いで脱水。そしてやっと干す。
だから何度もベランダに出る必要があった。

 めんどくさいがいいことがある。他に高い建物のない4階は景色がいい。遠くに緑も見える。

 1階に店舗がある分1階の屋上は2階のベランダに繋がっている。
他の階と同様にベランダは柵があるので、2階の住人がその店舗屋上部分を自身のエリアとして活用することはないが、管理人の老夫婦がそのスペースを趣味のガーデニングに利用しているのでコンクリートの屋上は殺風景というわけではなかった。

外出のままならない生活で、ベランダから街を眺めるのはいい気分転換だった。

 ーー洗濯物を取り込むには早いかなぁ。

 娘に声をかけながらベランダに出る。天気が良かったから厚手のものもよく乾いている。
 ベランダに出て洗濯物を取り込んでそのまま階下を見やれば幼稚園生や一年生、まだ授業時間の短い子達が歩いている。
いつもより少し早い下校だ。
 娘が通るかもしれないと思いしばらく眺めていたが2年生はまだ通る様子はなかった。

ーーももちゃん、お姉ちゃんも早く帰ってくるかもしれないねぇ
 部屋に戻り洗濯物を畳みながら、下の娘のももに声をかける

 りんが早く帰ってきても、遊びにすぐ出かけてしまうだろう。その前にオヤツを食べさせて宿題を早く終わらせよう。今日は旦那も早いはず、早く宿題が終われば夕食後に明日の買い出しにいっしょに行ってもいい。
 ただ昨日のりんはテレビにかじりついて宿題が終わるのが遅かった。…つい叱ってしまったけど2年生にあれだけ宿題を出す学校もどうなんだろう。

 それよりも、昨日のりんは少しおかしかったかもしれない。それを叱ったのはよくなかったのでは。
 母は少し落ち込んでいた。

 昨日の夕食前、少し不安そうにアパートの雰囲気が怖いと言っていた。おちゃらけてみせればりんはいつもの元気を取り戻していたから、特に気にせず娘の不真面目を叱ってしまった。

 夜、りんが眠ったか見に子供部屋を覗いた。
娘を見てドキッとした。



あんなに寝相の悪い娘が、じっと身動きせずに頭まで布団を被ってダンゴムシみたいに縮こまって寝ていたのだ。


こんな寝相初めて見た。
あまりに動かないので実は起きているのかと思い、声をかけた
ーーりん、お母さんたちと寝る?
 ピクリともしないのでどうやら寝ているらしい。
余りに寝苦しそうだったので起こさないように顔だけ布団から出させた。さすが子供は代謝がいい、汗で前髪が湿っていた。やはり暑かったようだ。

顔を拭ってやってから窓を見る。
あんなに怖がっていたのに窓もカーテンも全開だ。あまり風が入ってこないので気にならなかったのだろうか。

少し呆れながらカーテンだけ閉めた。
朝起きた時に窓が開いていたら怖がるかもしれない。でもそれより部屋の蒸し暑さが気になった。
部屋には元々扇風機があったのでそれをタイマーで切れるように設定してから部屋を出た。
いつでも顔が見れるように子供部屋のドアは閉めないように約束していた。
 その日は末娘に起こされるたび、りんの方の様子も見に行った。

結局夜の間変わりはなく、今日の朝にはケロッとしていた。いつも通り元気よく登校したので大丈夫だとは思うが…心配だ。



 小学生にあがった娘は、急に自ら1人で寝てみたいと言い出したのだ。
旦那ともども少し驚いた出来事だ。

 怖がりのりんが1人で眠れるはずがない。
すぐに「怖い」と言って元に戻るだろうと思ったら、
真夏の数ヶ月、冷房目当てに戻ってきた以外は本当に自分の部屋で眠れるようになってしまった。
 怖い番組を見たり夢見が悪いといつのまにか川の字になってたことはあるが、それも滅多にないことだった。

 内弁慶で大人しいりんでも、お姉ちゃんになっていくのだなとその成長が寂しい気もする。複雑な気持ちだった。

 だけど明るい時間帯の部屋の外がまだまだ怖い対象らしい。母にはこの子の基準がわからない。

学校で問題があるとも聞いてないし、毎日友達とも楽しそうに遊んでいる。
 だからやっぱり、子ども特有のインスピレーションが悪く働いているだけだろう。

 母だって少女だった頃、1人で歩いている時背後が妙に気になったりだとか、覚えはある。
それに、田舎の実家はトイレが家の外にあったのでいろんな意味で怖かった。
 なんならいい大人だが、怖い番組を嬉々としてみたこの前、シャンプーしてる時、背後が気になりすぎて怖かった。

 だから娘のが怖がりなのは親としては問題ない。
問題なのはとにかく足音が煩いことなのだ。ドタバタ走って、バーンと開け放つドアに大声での「ただいま!」
元気のよろしいことだが、いつかご近所に怒られそうだった。

 他所の大人に怒られてほしくない。
 ご近所付き合いとかじゃなくて、この子は繊細過ぎて他所の大人に叱られたら酷く傷つくだろう。

 現に、昨日の夜ちょっと叱ったとき、この世の終わりかというくらいに落ち込まれてこちらも凹んだのだ。
少しはお隣のお嬢さんのヤンチャを見習って欲しい。

 真っ向から怒る人はいないが「元気ね」と遠回しに注意する住人はいる。子ども達は文字通りに受け取るから気にしてないようだが、どの男児の母親も再三叱っているらしい。男児の親は大変そうだ。
 女児の方はそういう空気を読むのがうまいようで、男児同様にアパート中を歩き回っても、怖いおじさんの家の前は静かにしたりだとか物音を立てずに遊ぶ方法を考えたり要領よく遊んでいるようだ。うちには女の子だけで良かった。

 娘は大人しい方だし、大人の顔色を読むのはやたらとうまい。母自身もそういう子だった。
 なので娘と、特に親しくしてくれる子達は滅多に注意された事がない。

 子どもが多いアパートだから、煩い足音全部が娘のだとは限らない。
 帰ってきたとおもってカギを開けておいたらなかなか入ってこず「あれ?」と思うことも多々あった。子どもとはみんな怖がりだ。
 この階に子どもはうちのりんと、お隣のお嬢さんだけだから、娘でなければドタバタ煩いのはお隣のあの子だけだ。
小さい頃を知っているが、高校生も案外幼稚だ。

 間違えて一緒に取り込んでしまった洗濯バサミをベランダに戻しがてら階下を見る。だんだんと見知った顔の子達が通り始める。2年生の子だ。
 許されるならせめて一階に迎えに行ってやりたいが、ももに何があるか分からない。

 部屋に戻り玄関に向かう。カチャリ。カギを開ける。

そのタイミングで
ぱたぱた!と足音が聞こえてきた。ベランダから見た時には気づかなかったがもう近くまで来ていたらしい。

 こちらからドアを開ければ急なことで驚かせるかもしれない。いつも通り夕飯の支度でも始めておこう。

ぱたぱた…

どうやら娘ではなかったらしい。気の早い子たちが鬼ごっこでも始めたのだろうか。

 耳を澄ませれば何度も往復しているようだった。
よく考えれば、娘の足音はもっと煩い。

 娘が帰ってくるには、普段よりは早い時間だ。
でもそのまま鍵を開けたままでいいだろう。

ぱたぱた!

また足音が聞こえる。普段ならだんだん笑い声やボールを撞いて遊ぶ音がするが、声はあまり聞こえず足音だけが耳に届く。隠れ鬼でもしているのだろうか。それにしても妙な静けさだった。


 ふと、昨日のりんの話を思い出す。
りんにはこの家が生き物のように思えて怖いらしい。
少し解釈は違うが覚えはある。視線を感じることがあるのだ。


 この家には常に娘のももが居るから、誰も居ないということはない。それでもなんとなく別の気配を感じることがあるのだ。
 家事は忙しいからアパートの一室とはいえ、家の中をわりと歩き回ることは多い。どの部屋に移動してもなんとなく2人いるような気持ちになる時がある。

 ただ、それを不気味に思うとか怖いとは思わない。
昨日のりんの読んだという話のように、「家には先に何かが居付く」というのは割と昔からある話で、怪談というより言い伝えと言った方がいいだろう。

 だからりんの話を聞いて「腑に落ちた」という気持ちが大きかったのだが、怖がらせてしまったらしい。
帰ってきたらまた話をして安心させてあげよう。


 別に怖いものではないのだと、話してあげなければ。
旦那はわざと揶揄ってあそびそうだから2人で話そう。


ぱたぱた…

足音は何度も来ては遠ざかるのに、肝心の娘が帰ってこない。

そのうち、いつも通りの時間になっていた。

ーー様子がおかしい。

ぱたぱた!

また足音が近づいてきたのでドアを開け、声をかけてみることにした。
外にいる子は誰だろうか気になったし、知ってる子なら娘のことを聞いてみようと思った。

鍵の開けっ放しのドアを押す。
が、なかなか開かない。
少しは開くのだが何かがドアの前にあるようで重たいのだ。

とても重たいものではないようで、もう一度、今度はこちらも体重をかけながら押すとようやく開いた。




りんが、ドアの前に居た
廊下にむかって立ち顔だけこちらを振り向いている。
泣き腫らした顔で、目も鼻も真っ赤にして茫然としていた。



 今までドアに凭れて泣いてたらしい。
何がなんだか分からない、という顔で立ち竦んでいる。
母親も状況が掴めず、すぐに声をかけることができなかった。



ーーアンタ、いつからそこに居たの?
やっと出た言葉はそっけなくなってしまった

ーーカギ、かかってたから…何回もただいまって、言ったよ?

普段のりんなら泣きそうだが、どこかポカンとした様子で答えた。もう泣き疲れたのかもしれない。震えた声が可哀想だった。



 よく分からない。

 鍵は開いてた。開けた覚えがあるし、実際に開いていたからそのままノブを捻ったのだ。

 この子が帰ってくる音はすぐ分かるし、下校時間には外の時間を意識している。何よりずっと足音が聞こえていたのだから。この子の声が聞こえないはずないのに。



 聞かなければ良かったのに、つい聞いてしまった。

ーーさっきまで誰かと一緒にいた?


一瞬驚いた表情を、すぐにクシャッと歪めて泣き始めながら聞き取りづらい声で話す。

ーー誰か、居たかも、……怖かったぁ…


 泣き始めた娘を見て、ハッと目が覚めたような気持ちになった。ようやく頭が動き始めた。

少し乱暴になったかもしれないが慌てて娘の腕をひき、娘を抱きしめた。背中を庇うように娘の後ろに立ち、自分も玄関に背を向ける。ドアに背を向けたまま手探りで鍵を閉めた。
 手探りでドアノブを捻り鍵が閉まってるか確かめる。


…カチャカチャ

良かった閉まっている。2人はくっついたまま、足早に玄関から離れた。静かに寝ている、もものベッドにくっついて座り込む。

 母は、瞬きが出来ず喉がからからして声が出なかった。グスグス声をあげずに泣く娘を撫でて安心させる。その手は震えてたかもしれない。


 ようやく、耳にまとわりついていた、
ぱたぱた、という足音が途絶えた気がした。
耳鳴りが止んだ時のような感じ。周りの雑音が正しく聞こえてきたのは久々に感じられた。

鼻を啜る音と、時計の秒針の音を耳が捉える




カチャカチャ…
玄関の方を見る勇気はなかった。


この後、父がガチャガチャドーン!とやたら豪快にドアを開きます。
母と2人、飛び上がるほど驚きました

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