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持続可能な社会の実現に欠かせないもの

IPCCの報告書によると、現在の温暖化の影響は人為的な活動の影響であることを

疑う余地がないとされましたよね。(第6次IPCC報告書)

考えてみれば環境問題は、ロハスの時代も含め、長い間警鐘が鳴り続けている

ように思うのですが、果たして人類は、持続可能な社会に向かって

舵を切っているのでしょうかね?

残念ながら私自身も含めて、まだまだ本気になっていないと思っています。

なぜなんだろう?・・・と考えてみましたが、結局曖昧な未来に対して、

曖昧なロジックしか思い浮かばず、曖昧な対応策しか考えられないから。

それに対して私たちの欲望は、常に今ここにあるわけです。

それを我慢しても受け入れて対応を変えるべきことって何なの?

なんせ50年、100年、200年先の影響までも想定して今をどう生きるかという

話になってしまうので、正直よくわからないとなってしまっている気がします。

確かにSDGsに向かって、少しずつ新しい挑戦はなされています。

特にテクノロジーの進化によって問題解決をしようとする活動は、

次なるビジネスモデルのイノベーションにつながり、利益にも結びつくため、

積極的に取り組まれているような気がするのですね。

でもやっぱり、正直に言えばSDGsも、金の匂いがしないところは放置され、

置いて行かれている気がするのは私だけでしょうか?

逆に様々な規制を行うことで資格要件に結びつけ、新手の儲け話を

作り出していることも有るのではないですかね。

結局1個当たり、あるいは1個人あたりのエネルギー消費を抑えたとしても、

グローバルに消費数を拡大し続ける現在の資本主義のもとでは、

1つの問題解決が1つの新しい問題を生み出すだけで、

より良い方向に向かうのだろうか?それで間に合うのか?

という答えが出ない問いを持ってしまい、どうして良いかわからないのです。

【答えが曖昧な問いに対して、どう向き合うのか】

未来のことはわからないけど、できる限りの責任は果たしたい。

なぜなら、私の子や孫を含め、子々孫々に対する責任というか、

やはり幸せに生きて行って欲しいなとシンプルに想うわけです。

それが先祖に対する感謝の気持ちでもありますし、お陰様で豊かな現代を、

美しい日本で幸せに生きることができているという、恵みへの感謝ですかね。

そう考えた時にどう生きるべきかなと思うと、やはり私たちは自然の中で

生かされている生き物であるから、自然の摂理に従って、

持続的な循環型モデルの中で、仕事も暮らしも考えるべきかなと思っています。

いくら科学が進化しても、人間が自然を支配できるとは、私は全く考えません。

だから、テクノロジーの進化には期待したいですが、あくまでもそのベースに、

循環型社会の法則に従って生きていくのだという人類のモデルというか、

ある種の謙虚さがないと、道を間違うのではないかと考えています。

この循環型社会と対極にあるのが、急成長と利便性を望む社会ではないのか?

私は、そのように考えています。

私にとって進化発展は大切なことです。

また人間は、成長を本能的に喜ぶ生き物だと理解しています。

しかし急成長は幸せなんでしょうかね?

大体急成長すると、成長痛の如くあちこちに痛みが生じたり、歪みが出たり、

格差や分断が生じてしまうものなのではないかなと思うのですが、

それでも私たちは、急成長を求めるべきなのでしょうか?

私はそう思いません。

循環型社会の中で少しずつ成長する方が、余程幸せなんじゃないかな?

それではダメなのでしょうか?

私は真の成長とは、人間的な成長によって生まれるものであり、

これまでの量的な豊かさを求める時代から、人間的成長による豊かさの質を

求める時代へと進化した方が良いなって、ずっと思っていますが、

皆様は、どのように思われますか?

【諸悪の根源は、資本家の限りない欲望と暴走にある】

今は多くの資本を集めて水面化に潜り、一気に急成長するユニコーンと呼ばれる

ベンチャー企業がもてはやされていますよね!・・・なんで?

もう一度考えてみて欲しいのですが、急成長は幸せなんですかね?

急成長が必要な理由って何かありますか?

これって経済界のドーピングなんじゃないの?(これは言い過ぎですね^^;)

GAFAのお陰で世界の人は利便性や効率性を享受したかもしれませんが、

それで幸福度は増したのでしょうか?

私は大して詳しいわけではありませんが、少しだけ齧った知識の範囲で考えると、

近代資本主義の父と呼ばれるアダム・スミスも、資本論のカール・マルクスも、

非暴力不服従でインドを解放に導いたガンジーも、日本で言えば二宮尊徳や

山田方谷、渋沢栄一も、・・・いやいや、元を辿れば4大聖人と言われる

仏陀や孔子、ソクラテス、キリストも、

みんな同じことが大切だと説いているように理解しています。

代表してガンジーの「7つの社会的罪」だけご紹介すると、「労働なき富」

「道徳なき商業」は社会的罪だと言っているわけです。

要するに経済活動を行う根底に「人や社会全体を思いやる感情・道徳心」

なければ、経済は「経世済民」にはなり得ないと言っているわけで、

瞬間瞬間で見れば経済成長しているように見えても、長期的には世界大恐慌や

リーマンショックなどをもたらし、格差と分断の中で戦争さえも引き起こす

という結果に繋がるから気をつけなさいと、教えて下さっているように思います。

労働なき富を得ているのは誰でしょう?

道徳なき急成長を求めて、得をするのは誰でしょう?

金融資本主義という新たなルールをつくり、

マネーゲームの中で資本を増やし続けているのは誰でしょう?

漁夫の利に預かりたいと思って、その周辺にたむろしているのは誰でしょう?

「生産者階級への寄生虫である」とまで言われる方もいらっしゃいますが、

私は、私的欲望のみで肥大化する資本の暴走こそ、諸悪の根源だと思うのです。

空売りして価格が下がったところで取引する行為の、どこが投資家なんでしょう?

単なる投機であり、ギャンブルでしょ?それで財を成した人の何処が立派なの?

頭の中がファイヤーしているとしか思えません。

気をつけないと、この人たちもSDGsを唱えてバッチをつけてますよね!

全く悪気なく、良い人の顔をしているわけで皮肉なもんだなと感じます。

確かに事業・経済活動に資本・お金は必要不可欠ですが、

目的は「みんなの幸せ」なんじゃないですかね?

では、どうすれば良いのだろうということを、考えてみたいと思います。

【法律や仕組み、テクノロジー等では、問題解決しない】

経済学者として名高いケインズは、人間の道徳や感情に任せていても、

このような本能的欲望に近いところで発生している問題は解決しないだろう

と考えて、経済活動に一定の範囲で国や諸機関が関わり、

経済的調整活動を行うべきだと提唱したのかなと理解しているのですが、

結局のところ、これも上手く行っていないような気がしています。

原因として思うのは、国には国の損得があって、各国家は国益をかけて

様々な意思決定を行っているし、そこにはばっちり既得権益者が蔓延り

利益を貪ってしまうからではないかなと考えています。

歴史を振り返ると、社会主義・共産主義の壁は崩壊し、資本主義の方が、

まだましだよねってなっているのは確かだと思います。

しかしその資本主義も、マルクスの予言通り崩壊しつつあると感じています。

私的には、専制主義よりも民主主義の方がマシだと思っているし、

斎藤幸平さんが仰っている「コモン」という考え方にも、一部共感しています。

仕組みとしては、本当に少しずつ良い方向に進んでいると思うし、

法律や仕組みが大切であることは疑う余地はないのですが、

一方で、どんなにルールや仕組みを調整してみたところで、

それを運営する人間が、本能的欲望に身を任せて未熟な運転をすれば、

結局何をやっても上手くいかないのではないかなと考えています。

故に私は、経済の質的豊かさを享受しながら、かつ持続的な社会を実現するには、

人間そのものの質的成長こそが大切なのではないかなと思っています。

これはウェルビーイングの考え方とも一致します。

量を貪る経済的成長からは離脱して、本物の豊かさを楽しむ。

それには「本物がわかる人間」でなければいけませんよね。

だからこそ、経済成長を語る前に、まずは人間的成長が大切であり、

この人間的成長の総和が、持続可能な経済成長の総和になるのではないかなと

思うのですが、果たして、そのようなことは実現可能なのでしょうか?

単なる理想論であれば、布団に入ってからのお話になっちゃいますよね。

【人徳で導くリーダーを増やす】

正直全ての人を対象にして、本物の人間力を高めましょうと言ってみたところで、

きっと夢物語でしかないなと感じています。そういうところはクールです(笑)

しかし、ホワイト企業対象を受賞されている経営者の方や、

歴史的に偉人と言われる人物の生き方などに触れる機会を頂くと、

その人たちの影響を受けているフォロワーの人たちも少しずつ感化されて、

その人なりの人間的成長を実現されているように感じますし、

何より働くことや貢献することに喜びを感じられ、

多くの人が幸せに生きられているように思うんですよね。

そう考えると、結局私たちは、2000年も3000年も前から説かれている

先人の教訓を、実現できていないだけなんじゃないかなと思っています。

いや、現代においては、むしろ退化現象が生じているのかなとさえ思っています。

今はリベラルアーツという表現になっていますが、昔からある帝王学ですね。

これをリーダーがきちんと学んで、覇道をやめ王道に着くということが、

大切なんだろうと思います。

これってテクニックやスキル・ノウハウの話では一切ありませんよね。

心と体、精神・魂を磨いて人間そのものを高めていくことに他なりません。

何のことはないのです。理論や理屈で学ぶのではなく、人は何と言おうが、

どう生きていようが、自分自身は慎独して「善く生きる」ことを実践し、

それが無意識の習慣になるまで精進するというだけのことだと思います。

これが嫌な人はリーダーの立ち位置に立つべきではありません。

マウントするリーダーなど、フォロワーは求めていません。

リーダーの逞しさや、フォロワーを思いやる優しさに触れて感化され、

一人でも多くの人が善く生きようとした時に、経済もまた質的に豊かになり、

本当の意味でのSDGsが進んでいくのではないかなと思っているところです。

私は、「人が育つ環境構築」のお手伝いや、それを導くリーダー育成を

サポートさせて頂いておりますが、パーパスなんて横文字で誤魔化すのではなく

「先憂後楽」や「先義後利」などの「志をもつべし」と伝えた方が、

何だか本気度が伝わるような気がしますね。

同時に、「至誠惻怛」の心で抱擁することが大切だなと思っています。

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