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The Rime of the Ancient Mariner 老水夫行

 サミュエル・テイラー・コールリッジ Samuel Taylor Coleridge の詩『 The Rime of the Ancient Mariner 』( 1798年 ) の訳。 

 イギリスのポップ・バンドの XTC のアルバム『 Black Sea 』(1980年)のカバージャケットは、この物語詩をモチーフにしたもの。   




第一部

ほら、古風な水夫だ。
そら、通る三人の中の一人を捉まえた。
「これは、長い灰色の顎髭と爛々とした眼のあなた、
なんだって、わたしを引き止める?」 

「花婿の扉が一杯に開いているでしょう、 
わたしは家の者なのですよ、 
お客はもう集まっていて、ご馳走も揃ってる。 
あなた、楽しげな騒ぎが聞こえるでしょう。」 

水夫は痩せて骨ばかりの手で捉まえて、 
言った。「一艘の船があったのだ。」 
「放せ、行かせろ、灰色髭の奇人め!」 
直ぐ様、水夫は手を下ろした。 

水夫は爛々とした目で捉まえた。 
婚礼客は立ち尽くした。 
そして、三つ児の様に耳を傾ける。 
水夫は、念いを叶えた。 

婚礼の客は石に座った。 
聞く他はなかった。 
こうして、古風な男は話し始めた。 
爛々とした眼の水夫。 

船は歓呼の声に送られた、港は晴れやかだった。 
我らは、朗らかに出発した、 
教会の下を過ぎ、丘の下を過ぎ、 
燈台の頂の下を過ぎた。 

太陽が左舷に現れた。 
海から、太陽神は現れた。 
そうして輝き、そうして右舷で、 
海の中に隠れた。 

毎日、正午には、太陽神は、 
帆柱の上の高い上にも高く、…。 
婚礼客は、ここで、自分の胸を打った。 
大きなバスーンの音を聞いたのだ。 

花嫁が会堂に入って来たところだ。 
花嫁は、薔薇の様に真紅。 
歩む花嫁の前を、 
頭を縦に振って合図する吟遊詩人たちがいる。 

婚礼客は、胸を叩いた。 
けれど、話しを聞く他なかった。 
それで、古風な男は話し続けた、 
爛々とした眼の水夫。 

嵐の一陣が遣って来た。 
横暴で強力な嵐王だった。 
翼を一振りして追い付いて来た。 
南までずっと船を追い続けた。 

帆柱を傾げ、船首を水に突込み、 
船は猛進した。その側では、嵐が喧しく吼えていた。 
それは、まるで、怒鳴られ殴られながら、その敵の
陰に回ろうとして前に出てしまう男の様だった。 
ずっとそのようにして、我らは、南へ逃げて行った。 

そして、霧と雪が一緒に来た。 
そして、驚愕する程寒くなった。 
帆柱程の高さの氷が漂って来た。 
エメラルド程の濃い緑色だった。 

そして、雪の崖が、流れに沿って、 
陰気な光を漂わせていた。 
人影はもちろん、獣も見えなかった。 
どこも、氷だった。 

ここにも氷、そこにも氷。 
あたり一面氷だった。 
氷は割れて、轟き出し、その音は轟音になり、遠くまで聞こえた。
まるで、気を失う時の頭の中の音の様だった。 

随分と経って、一羽の信天翁が、
霧を突き抜けて遣って来た。 
それはまるで、キリスト教徒の魂の様だった。 
我らは、天にも昇る思いで、信天翁を歓迎したのだ。 

信天翁はこれまで食べたことのない食べ物を食べさせて貰った。 
それから、船の上をぐるぐると飛んで回った。 
すると、氷が雷鳴の様な音と共に割れたのだ。 
舵取りは、我らを氷から抜出させた。 

すると、誂え向きな南風が不意に吹き出した。 
信天翁がついて来る。 
毎日、ついて来た、食べ物をもらおうと、遊んでもらおうと。
信天翁は、寄って来ては、水夫に声を掛けられた。 

薄霧の中、雲の中、帆柱の上、横静索の上にいたりしたが、
信天翁は第九晩課の時には羽を休めた。 
夜の間中、真白な濃い霧を透過して、 
月の光が仄かに輝いていた。 

「どうしたんだ、昔風の出で立ちの水夫の爺さん、
幽霊に脅かされているみたいだ、 
どうして、そんな顔なのだ?」 自分の弩で
私は、信天翁を撃ったのだ。

第二部 
 
太陽が、今度は、右手に、 
海の中から上がって来る。 
そうして、左手に、海に
入って、消えて行く。 

有り難い南風は、まだ、後ろから押していた。 
けれど、付いて来る可愛らしい鳥はいなかった。
空のどこにも、餌を貰おうと、遊んで貰おうと、
水夫たちの呼び掛けに応える信天翁はいなかった。 

業の深いことをしたのは、この私だ。 
それは我ら皆に苦難を齎したのだ。 
何と言っても、私があの鳥を殺したのだ。 
風を吹かせ始めた、あの鳥を殺したのだ。 
嗚呼、あの鳥は滅んでしまった、と皆は嘆く。 
風を吹かせ始めた、あの鳥は滅んだ、と嘆いた。 

ところが、鈍くもない代赭色でもない、神の頭そのものの、
輝かしい太陽が昇って来たのだ。 
すると、私が殺したあの鳥は、 
何と言っても、霧と靄を齎したのだ、 
あの鳥が滅んだのは、良かったのだ、と皆は言った。 
霧と靄を齎した鳥は死んだのだ、と言った。 

順風が吹き、白い飛沫が散って行った。 
波のうねりが遮るものもなく続いていた。 
ところが、静かな海に入り込んだ、
最初の人間に、私たちはなったのだ。 

風は止んだ、帆は垂れた。 
それ以上は無い悲しいことだった。 
私たちは、ただただ、静かな海を
突き抜けることだけを話し合った。 

正午、頑固な太陽は、 
熱く焼けた赤銅の鍋の様な空にあって、
帆柱の真上に止まったのだ。 
月よりも大きくはなかったのだが。 

来る日も、来る日も、我らは立ち往生したままだった、 
風は幽かな音も立てず、波は軽い泡も動かさなかった。 
描かれた海の上の、描かれた船の様に、 
遊休していた。 

水があった。何方を向いても水だった。 
どちらを向いた針路も閉ざされた、 
水がある。何方を向いても水だった。 
けれど、飲める滴は一滴もなかった。 

そして何と言うことか、水はずっと底まで腐ってしまった。 
水がこのようになるなど、初めてだった。 
足のあるぬるぬるしたものが、ぬるぬるの海の上を 
這い回っていたのだ。 

夜には、あちらこちらで、鬼火が、
リールダンスを踊っていた。大夜会だった。 
海水は、魔女の油の様で、 
緑、青、白色に、燃えていた。 

それは、私らを悩ませる幽鬼の
夢見た物に違いなかった。 
幽鬼は、九ファゾムの深さで私たちに付いて来たのだ、
あの霧と雪の土地から付いて来たのだ。 

誰の舌も、徹底的に乾き切って、 
根から萎れてしまっていた。それで、 
私たちは話せなかった。 
煤が詰まった時より楽と言うことはなかった。 

ああ、お天道様! 若い水夫からも、古株の水夫からも 
陰険な眼差しを、私は向けられた。 
首には、十字の代わりに、 
信天翁を掛けられた。  

第三部 

時間が私たちを浸食していった。誰の喉も、
渇き切り、誰の目も、濁って行った。 
浸食する時間、浸潤する時間。 
長い時に疲れるはて、それだけ濁る目、
その目を西に向けた時、私は、
空に何かあるのを認めたのだ。 

最初、私は、それは私の視界に出来た小さな染みだと思った。
それから、そうではなくて、靄だと思った。 
だが、それは動いていた、動いていたのだ。そして遂には、 
私が見知っていたある形になった。 

一点の濁り。靄。私の見知った形。 
そうして、それは、近づいて来た。近づいて来たのだ。 
けれど、まるで水の小鬼のように、素早く身を翻しながら、 
飛び込むかと思えば、稲妻の様に左右に、方向転換するのだ。 

潤いのなくなった喉、干上がって黒ずんだ唇では、 
私たちは、笑うことも、それどころか、泣き叫ぶことも出来なかった。 
極度の渇水で、私たち全員が唖になっていた。
私は自分の腕に噛み付いた。そして、血を吸った。
そうして、やっと、叫んだのだ。「帆船だ! 帆船だ!」 

潤いのなくなった喉、干上がって黒ずんだ唇、あんぐりと口を開けた 
皆が、私の叫ぶのを聞いた。 
「有り難い!」 皆は喜んでにこりと笑った。 
そして、一斉に、皆の息が止まった、
全員が息を丸ごと飲み込んだからだ。 

私は叫んだ。「見ろ、見ろ! あの帆船はもう上手回しをしない。 
こちらへ来て、私たちを安心させる。 
快速な風、潮流もないのに、遣って来る。 
真っ直ぐな竜骨で、逸れることなく遣って来る。」 

西の方の波は、全部が、ひとつの炎になっていた。 
昼はもう終わりかけていた。 
太陽は、ほとんど波に接するところで、 
横に拡がって、輝いていた。 
その時、突然に、異形のものが、
私たちと太陽の間を、疾走した。 

すると、太陽は真っ直ぐ突っ切る横棒で寸断された。 
( 天におられる御母様、お慈悲を給わり下さい! ) 
まるで、横に広がり輝く顔をした太陽は、 
地下牢の格子から覗いている様だった。 

おお! ( 私の心臓が大きな音を打ち出した、と思ったのだ。 ) 
帆船がどんどん近づいて来る、その速さ。 
太陽の影の中できらめくその帆は、 
蜘蛛の糸で織られた儚い絹の様だった。

太陽がその後ろから姿を見せている、格子の様なもの、 
あれは、帆船の肋材なのだろうか? 
女が一人居る、乗員はあの女一人なのか、 
それが「死」なのか? 乗員は二人いるのか? 
それが死で、女の仲間なのか?  

女の唇は赤かった。女の目付きは無遠慮だった。 
女の髪は解れていて、金掛かった黄色だった。
女の肌は白く、重い皮膚病のようだった。 
悪夢に出る「生の中の死」と言うのは、この女のことだった。 
その冷たさで人間の血をどろどろにさせた。  

骨格だけの廃船が横に並んだ、 
二人の女は骰子を投げたところだった。 
「目は出た。わたしが勝った、わたしが勝った!」 
女は言い、口笛を吹いた、三度。 
すると、太陽の頂きの縁が沈み、星々が突然現れた、 
そして、一跨ぎで、暗闇が来る。 
海の上、遠くに囁き声が聞こえる、
そして、幽霊船はすごい速さで通り抜けた。 

私たちはじっと聞いた。船端をじっと見上げた。 
私の心中の恐怖は、杯の様で、
私の生き血は、その中に入っている一啜りのようだった。 

星々は明るさを弱め、夜陰は深くなった。 
舵手の顔が、手元灯の光りを映して、白かった。 
そんな暗闇の間、帆からは露が落ちていた。 
そうして、東の水平線に、両端を鋭く尖らした月が、 
下の端に、
明るい星を一つ連れて、登って来た。 

この星に追尾された月の所為で、 
呻くことも息を漏らす間もなく、
恐ろしい痛みに頭を仰け反らせ、
一人が、その目で私を罵った。 

五十の四倍の生きていた水夫、 
( 私は彼らの溜息も呻きも聞かなかった。 ) 
彼らは、一人、また、一人と順々に、 
重い音を立て、命の無くなった肢体を落とした。 

魂は、水夫たちの肢体から飛び出した、 
魂は、天国か、あるいは、煉獄へ行った。 
どの魂も、私の脇を掠めて行った。 
私は、まるで私の弩で打った矢の様な音を聞いた。 

第四部     

「恐い、船乗りのご老人! 
わたしは恐いんです、あなたの骨のような手が恐いです! 
こわい、あなたはのっぽで、ひょろひょろ、それに土気色。 
まるで、海の砂浜に出来た砂の畝の様です。」 

「あなたが恐い、あたたのぎらぎらした目が恐いです。 
あなたの骨のような手は、土気色です。」 
恐がらないで、恐れないで、婚礼の客人! 
この身体は、頽れたりしないから。  

ひとり、ひとりだった、まったくひとりっきりだった、 
広い宏大な海原で、私は一人っきりだった。 
一人の天使も、苦しみに喘ぐ私の魂に、
憐憫をかけてはくれなかった。 

たくさんの男たちがいた、それは皆、達者だった! 
それが皆、倒れて死んだ。 
一千のぬるぬるしたものが、遺体に取り付いて
生きていた。私も屍体の上で生きたのだ。 

腐った海を見詰め、私は、
その目を海から転じた。 
そして、甲板を見た。 
死んだ男たちが横たわっていた。 

私は、天上を見上げた。そして、祈ろうとした。
だけれど、一言の祈禱が湧き出るよりも早く、 
邪悪な囁きが降りて来て、
私の心を埃の様に干涸びさせた。 

私は、瞼を下ろし、閉じたままにした。 
ふたつの眼球は、脈打つ様に痛んだ。 
空の、そして、海の光景の為に。海と空とに見たものの為に。 
それらが、私の弱った目の上に、重荷の様に伸し掛る。 
そして、私の足には、死が触っている。 

屍体の四肢から、次第に、冷えた汗が消えて行った。 
屍体は、腐りもせず、臭いもしなかった。 
屍体が私を見る眼差しは、 
私から逸れることはなかった。  

孤児の呪いは、天国にある魂をも
地獄へ引き摺り込む、と言う。 
けれども、それよりももっと恐ろしい 
呪いは、死者の目に宿る呪いなのだ。 
昼が七回、夜が七回過ぎる間、私は、その呪いを見ていた。 
それでも、それでも、私は死ななかった。 

月は動き続けていて、空を昇って行った。 
何処でも、止まることはなかった。 
音も無く昇って行った。 
星が一つ、あるいは二つ、側にあった。  

四月の白霜の様に拡がる月光は、 
蒸し暑い海原を侮っていた。 
けれども、船の巨大な影が投げ掛けられているところでは、 
魔法を掛けられた水は、冷やされることなく、燃え続けた。 
そして、恐ろし気な赤色のままだった。 

私は、水蛇を見た。 
海面に映える船の影の向こうにいた。 
白く輝く航跡の波間に泳いでいた。 
蛇が鎌首を擡げると、妖怪めいた光りが、 
灰白の欠片になって、落ちて行った。 

船の影の中で、私は、 
水蛇の豪華な衣装を見た。 
青、輝く緑、絹の様な黒。 
蜷局を巻いては、解いて泳いだ。どの波跡も、
金色に煌めいていた。 

嬉々とした生き物! ああ、言葉もない、  
あれらの美しさを言い当てる言葉がない。 
私の心中から、あれらを愛おしく感じる思いが、噴き出した。 
図らずも、私は、あれらを讃美した。 
私の守護聖人が、私を憐れんだのは、確かだろう。 
けれど、私は、あれらを讃美した。 

正にその瞬間、私は、祈ってもいたのだ。 
すると、首がまるで楽になった、 
信天翁が落ちていた、そして、鉛の錘の様に 
海の中へ沈んで行った。   

第五部     

眠り。眠りは寛大だ。 
世界の極から極まで、重宝される。 
マリア女王に讃辞を贈らなくては。 
女王は、天界から眠りをお下しになった。 
その眠りが、私も気付かない内に、私の魂に入っていた。 

私は夢を見た。甲板に、長い間、 
放っておかれた馬穴、あのどうしようもなく無用の 
馬穴に、露が満ちている、夢だった。 
目を覚ますと、雨が降っていた。 

唇は湿っていた、喉には涼味があった。 
着衣は、どこも濡れしょぼたれていた。 
夢の中で、私が飲んでいたのは、確かだった。 
そして、私の身体は、まだ、水を吸っていた。 

身動きして見た。手足の感覚がない。 
とても軽かった。ほとんど重みがない。 
私は、眠っている間に死んだのだ、と思った。 
浄められた霊になったのだ、と思った。 

直後に、私は、風の唸りを聞いた。 
近くでは、吹いていなかった。 
けれど、その音で、帆が揺れた。 
帆は、擦切れて、ひらひらしていた。 

ずっと上の空が急に騒がしくなった。 
百の燃える敷石が輝いた。 
こちらへあちらへ、それらは、素早く動き回った! 
そして、あちらへこちらへ、前へ後ろへ 
弱い光りの星たちが、その間を跳ねていた。 

吹いて来る風は、どんどん、唸りを増した。 
そして帆は、菅と同じ虎落笛を鳴らした。 
ただ一片の雲から雨が注ぎ落ちた。 
その雲の端に月があった。 

その厚い雲が裂けた時、まだ、 
月は側にあった。 
高く聳え立つ角岩から放り出される水の様に、 
稲妻が、折り曲がらずに落下する様は、 
落差の激しい河の様だった、しかも広い幅の河だった。 

唸る風が船に届くことはなかった。 
なのに、船が動き出した。 
稲妻と月の下で、 
死んだ男たちは、呻き声を上げた。 

男たちは、呻いた、蠢いた、立ち上がった。 
死んだ男たちは、喋らなかったし、眼も動かさなかった。 
夢にしても、奇妙だった。 
死んだ男たちが立ち上がるのを見たのだ。 
 
元の舵手が舵を取ると、船は動き出した。 
けれど、微風も吹いてはいなかったのだ。 
元の水夫たち全員が、いつもの場所で、 
綱を操り始めた。 
水夫たちは、命のない工具の様な四肢を、上げた。 
私たちは、死んでいる乗組員だったのだ。 

兄の息子の遺骸が、 
私の側に、膝と膝を合わせて、突っ立った。 
遺骸と私は、一つの綱を引いた。 
けれども、兄の息子は、何も言わなかった。 

「恐い、船乗りのご老人! わたしはあなたが恐ろしいです。」 
落着くんだ、婚礼の客人! 
痛みで逃げ出した魂が、 
元の身体に戻って来たのではなかった。 
それは、浄められた魂達の一団だった。 

それが分かったのは、夜が開けた時、 
遺骸たちは、手を落とし、帆柱の周りに群れ集まった。 
その口から、美しい声音が立ち昇って来たのだ。 
そして、身体から離れて行ったのだ。 

美しい声音のどれも、飛んで行って、上空を回った。 
何度も回り、そして、太陽に向かって、真っ直ぐ飛んで行った。 
そしてまた、声音は、今度はゆっくりと戻って来た。 
互いに、一つまた一つと、声が混じり合って行った。 

時には、それは、空から落ちて来るたった一つの声だった。 
私は、雲雀が歌うのを聞いたのだ。 
時には、この世にいるありとあらゆる小鳥の声だった。 
そのチュンチュンと言う囀りで、 
海と空が一杯になる様子は、何とも凄まじかった。 

そして、今度は、楽器のすべてが鳴っている様になった。 
そして、また、一本のフルートだけが鳴っている様になった。 
そして、今度は、その声音は、一体の天使の歌声になった。 
その歌声は、幾層もの天界に、静粛をもたらしたのだ。 

その歌声は止まった。けれど、帆は、まだ、 
気持ちのいい音を立てていた、昼までは続いていた。 
その帆の音は、六月で伸び切った叢に 
隠された小川の音の様だった。 
小川が、一晩中、眠り込んだ森に 
聴かせる、静かな歌の様だった。 

正午まで、私たちは、静かに帆走した。 
ただ、一瞬の微風さえ、吹き掛けることはなかった。 
船は、ゆっくりと、滑らかに、動いた。 
喫水下から、前へ、動いていた。

船の下、九ファゾムの深さで、 
霧と雪の土地から来た、 
幽鬼が滑っていた。幽鬼だったのだ、 
船を動かしていたのは。 
正午には、帆は、鳴り止んだ。 
そして、船も止まって動かなくなった。 

太陽が、帆柱の真上にあった。 
船を大海で動けなくしていた。 
けれども、僅かの間を置いて、船は、また、揺れ動いた。 
ぎこちなく動いた。 
船体の半分程の距離を、後ろへ前へ、 
ぎこちなく途絶え途絶え動いた。 

そして、蹄を蹴立てる馬の様に、船は、 
突然に、跳ね上がった。 
それで、私の頭に血が登った。 
私は、気を失って倒れた。

何れ程の時間、私が失神して倒れていたのか、 
私には、確かには分からない。 
ただ、私の正気が戻る前に、 
私の魂は、二つの声を、空中に聞いたのだ、 
その話しを理解したのだ。 

声の一つが言った。「これなのか? この男なのか? 
十字架の上で死んだあの方にかけて、 
無害の信天翁を、残酷な弓で 
海の底まで打ち落としたのは、この男なのか?」 

「霧と雪の土地に、 
一人きりで、残っているあの幽鬼は、 
この男を好いていた、あの鳥を好いていたのに、 
この男は、その鳥を弓で射ったのだ。」 

もう一つの声は優しい声だった。 
蜜の滴の様に優しかった。 
言った。「この男は、もう贖罪した。 
これからも、もっと購いをするだろう。」 

第六部 

第一の声 
「いや、教えてくれ、教えて、もう一度、話してくれ、 
貴方の優しい声で答えを始めてくれ、 
この船をこんなに速く航行させているのは何? 
海原がしていることは何? 」 

第二の声 
「身動きしない、まるで、主人を前にした奴隷の様だ、 
海原には、一陣の風もない。 
輝く眼差しが、まったく無音で、 
月に投げ上げられている。 

そうすれば、どちらに進めば好いのかが、分かるとでも言う様だ。 
と言うのも、月が海に教えるのだから、凪にするのか時化にするのかを。 
見なさい、見なさい、なんて慈悲深く 
月は、海原を見下ろしているだろう。」 

第一の声 
「けれども、どうして、その海の上を船はあれ程速く動くのだ? 
波も風もないのに。」 

第二の声 
「前方の空気が切り除けられる。 
そうして、後ろが閉じられるのだ。 
 
飛び上がれ、君、飛び上がるんだ、もっと高く、もっと高くにだ。 
間に合わなくなるかも知れない、 
ほら、船がだんだんと速度を緩めている。 
もう、あの水夫の催眠状態は浅くなり、気付かれるかも知れない。」  

私は気付いた。私たちは、まだ、航行していた。 
その時の天候は穏やかだった。 
夜だった。風のない夜だった。月は高かった。 
死んだ男たちが、一緒に立っていた。 

死んだ男たち皆が、甲板に立っていた。 
地下の屍体安置所にこそ相応しい有様だった。 
全員が私を見詰めていた、石の様に無表情の目だった。 
それが、月の光りをきらきらと反射していた。

屍体の水夫たちを死なせた、苦しみ、発作は 
石の様な目から少しも消え去ってはなかった。 
私は、視線をその目から引き離すことは出来なかった、 
それに、視線を上に向けて、祈ることも出来なかった。 

その時、呪われた状態がフイと終わったのだ、再び、 
私は、海が緑色なのを目にした。 
前方を見渡したが、それまで見えていたものは 
なにもなかった。 

まるで、人気のない路を 
恐れ戦きながら歩いていて、 
一度は、歩いている路を見回すけれど、 
二度とは見回すことのない人に、私は似ていた。 
恐ろしい幽鬼は、自分が歩いている 
すぐ後ろに迫っていることが、分かっているからだ。 

直ぐに、私に一陣の風が吹き付けて来たけれど、 
音も立てなかったし、何も動かさなかった。 
その風の通り道は、海の上にはなかった、 
波頭にも、波の陰にもなかった。 

その風は、私の髪を巻き上げ、私の頬を扇いだ。 
その仕方は、春の草原の突風の様だった。 
風には、私を不安にさせるものも混じっていたけれど、 
不思議なことに、歓迎されている感じもしたのだ。 

船は飛ぶ様に滑走した、すいすいと。 
けれども、少しの衝撃もなかった。 
風も吹いていた、そよそよと。 
私にだけ吹き付けていた。 

ああ、嬉しい夢! これは本当のことなのか? 
私が見ているのは、本物の燈台の灯室なのか? 
あれは懐かしい丘か? 教会か? 
紛れもない私の古里なのか? 

私たちは、押し流されて、港口の砂洲を越えた。 
私は、咽び泣きながら、祈った。 
神様、私を目覚めさして下さい! 
そうでなければ、ずっと眠らせて下さい、と。 

港の入江は晴れやかだった。まるで、 
ガラスが均一に鏤められた様だった。 
そして、月が掛かっていた。 
入江には、月の影が映っていた。 

岩礁は明るく輝いていた。その上で劣る事なく輝いているのは、 
常にそこに建っている教会だった。 
その頂きのまったく動かない風見鶏を、 
月光は、何の音も立てずに、しっとりと濡らしていた。 

入江は、無音の光りで、白かった。 
でも、その白い色の入江が、 
ステンドグラスの一片にある様な深紅色の 
人形で満ち溢れてしまった。それは、影だった。 

船からほんの僅かの距離の所に、 
その深紅色の影は映っていた。 
私は、視線を甲板にやった、すると、 
ああ、救い主様! 何を私がそこに見たかと言えば… 

屍体はどれも皆、ぺったりと倒れていた、生命もなくぺったりと。 
神聖な十字架に誓って言うのだが、 
全身光り輝く人型、人間の姿の熾天使が、 
それぞれの屍体の上に立っていたのだ。 

熾天使の一団だった。どの熾天使も手を振っていた。 
それは、天国の光景の様だった。 
熾天使たちがそこに立っていたのは、彼ら一人一人皆が美しい光りで、 
その光りが、陸への合図になるからだった。 

熾天使の一団は、どの熾天使も手を振っていたけれど、 
誰も声は発しなかった。 
無声だった。けれど、ああ、その静寂が、 
音楽の様に、私の心に沁み込んだ。 

すると、櫂が水を敲く音が聞こえた。 
私は、水先案内人の歓迎の声を聞いたのだ。 
私は、自然と、顔をそちらに向けた。 
私の視界に、一艘の小舟が入って来た。 

水先案内人がいた。そして、その助手がいた。 
とても早く近づいて来るのが聞こえた。 
天国に居られる主人様! その音は、 
死んだ男たちも萎ますことの出来ない、喜びの音だった。 

三人目の人が見えた。 その声も聞こえた。 
ああ、敬虔な隠者だ、 
ご自分が森で作った 
神への讃歌を朗々と歌っている! 
隠者様が、私の魂を購って下さるだろう、 
信天翁の血を洗い流して下さるだろう! 


第七部  

有り難い隠者様が住まわれている 
その森は、そのまま海へと傾れ込んでいる。 
隠者様が立ち昇らせるその快い声は、何所までも朗々と聞こえる! 
隠者様は、遠い国々から遣って来た、 
水夫たちと話すのがお好きなのだから。 

曉時と正午と夕時に、隠者様は跪く。 
ふっくらとした座布団があるのだ。 
古い樫の切り株をすっかり隠した 
苔、それが隠者様の座布団なのだ。 

手漕ぎ舟が近づいて来た。私はそこからの話し声を聞いた。 
「どうしたんだろう、これは、私には怪異に思える。 
あのたくさんの美しい光りはどこにあるのだ、 
合図を送っていたのに、今はどこにあるのだ?」 

隠者様も言った。「誓っても、これは怪異だ。 
呼び掛けにも答えない。 
船板は反り返っているし、帆を見てみろ、 
細かく千切れて垂れ下がっている。 
これに似たものは、何にしても、見たことがない。 
似ているものと言えば、おそらく、」 

「蔦の茂みが雪で埋まり、 
雌狼が産んだ子を食べている 
樹下の狼に、子梟が鳴き掛けている、そんな季節に、 
私の森の小川をひっかかりひっかり 
流れて行く、褐色の葉の骨だろう。」

( 水先案内人が応じて言った ) 
「ああ、神様! 悪魔の形相だ、 
怖じけてしまった様だ。」 だけど、 
「進め、進め」と隠者様が奮い立たせる様に言った。 

小舟がずっと船に近づいた。 
けれども、私は、声も出さず、身動きもしなかった。 
小舟が舷の直ぐ下まで近づいた。 
すると直ぐに、何か音が聞こえた。 

水の中で、その音はゴロゴロと鳴り続けた。 
音は大きくなり続け、どんどん恐ろしい音になった。 
音が船に到達した。音は湾を引き裂いた。 
船は、錘りの様に落ちて行った。 

海原と空を強打した、 
その大きな恐ろしい音で、私は、気を失った。 
七日も沈んでいた人の様に、 
私の延びた身体は浮かんでいた。 
けれども、夢が束の間のことと同じ。私は、 
自分が、水先案内人の小舟に居るのが分かった。 

沈んだ船が起こした渦の周りを、 
小舟は、きりきりと回った、ぐるぐると回った。 
何もかもが静かだった。そうでないのは、あの丘、 
いつまでも、轟音があったことを物語っていた。 

私は唇を動かした。 水先案内人は金切り声を上げて、 
卒倒した。 
隠者様は、視線を上に向けて、 
そこに座ったままで、祈り出した。 

私は櫂を取り上げた。水先案内人の助手は、 
もう正気を失っていたのだが、 
大声でいつまでも笑っていた。笑っている間でも、 
彼の目はあちらこちらと彷徨っていた。 
そしてこう言った。「ハハ! すっかりわかったぞ。 
悪魔は、漕ぎ方を知っているんだ。」

そうしてついに、草臥れ果てて、自分の国へ、 
私は、固い地面の上に立った。 
隠者様も、小舟から踏み出した、 
けれども、やっと立てるだけだった。 

「ああ、私の告解をお聞き下さい、お聞き下さい、隠者様。」 
隠者様は、ご自分の額に十字を切った。 
こう言われた。「まず、言いなさい、あなたに命じます、 
あなたは、どういう種類の人間なのか、お言いなさい。」 

すると、忽ち、私の筋骨は捩じ曲がった。 
それは、恐ろしい苦しみだった。 
その苦しみは私を強いて、私に物語りを始めさせた。 
すると、楽になった。 

それからと言うもの、苦しみは、 
不意に戻って来る様になった。 
私がこの怪談を話してしまうまでは、 
私の中のこの心臓は、熱を出すのだ。 

私は、夜に似ている、土地から土地へ渡り歩く。 
私は、話し方に不思議な才能があるのだ。 
その人の顔を見た瞬間に、 
その人が私の話しをきっと聞くかどうかが分かるのだ。 
その人に私に生じた寓意を分からせようと物語るのだ。 

扉から、けたたましい声が溢れ出ている、ほら! 
婚礼の客人たちがいるのだろう。 
庭の東屋には、花嫁と 
花嫁の付添いの少女たちがいて、歌っている。 
けれど、よく聞けば、晩鐘が小さく聞こえる、 
あれは、私に命じているのだ、祈禱をしろと。 

ああ、婚礼の客人、この私は、 
広い海原で一人きりだった。 
あまりに孤独だった。それだから、 
神さえもおそらくそこには居ないと思える程だった。 

ああ、婚礼のご馳走よりも嬉しいこと、 
婚礼の宴よりも、私にとって、ずっと甘美なことは、 
立派な仲間の一団と一緒に、 
教会へと歩くことなのだ。 

教会へと一緒に歩く、そして、 
それぞれが、巨大な父へと跪くのだけれど、
寸分違わず合わせて祈るのだ。 
老人も、幼児も、愛し合っている恋人たちも、 
若者も、朗らかな純潔の少女たちも。 

さようなら、さようなら。ああ、ひとつ、 
あなたに言っておく、婚礼の客人! 
人であれ鳥であれ獣であれ、善く愛する者が、 
善い祈りを上げられる者なのだ。 

大きなものも小さなものも、すべてを最上のものとして 
愛する者が、最上の祈りを上げられる者なのだ。 
神は、私たち人間を愛している神は、 
すべてを創って、そして、すべてを愛しているのだから。 

目が輝き、 
年齢で白くなった髭の 
水夫は行ってしまった。すると、この婚礼客も、 
新婚の家の扉から取って返してしまった。 

彼は、気を失った人の様に、 
まったくの孤独である様に、歩いた。 
そして、翌日の朝、目覚めると、 
ずっと辛い悲しみからもっと深い智慧を得た人になっていた。  






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