日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その11

 上洛を果たして平家を都から追い出した義仲だったが、実は多くの問題を抱えていた。

 まず、平家は安徳天皇を連れて逃げたために都に天皇がいないというとんでもない事態になったのである。

 そのため、安徳天皇に変わる帝を選ぶ必要性が出てきたのだが、ここで義仲は何を思ったのか自分が保護していた以仁王の子、北陸宮を推挙した。

 義仲としては、平家がこうして都落ちしたのは以仁王が討伐の令旨を下したからであり、その功績をもって遺児となった北陸宮を天皇へと即位させようとしたのである。

 だが、当然ながら後白河法皇も、そして皇族や貴族たちは猛反対して却下した。

 というのも、以仁王はそもそも親王ですらない。親王とは、嫡流にあたる皇子を指す。以仁王は二条天皇の弟であり、彼は一度出家したこともあるなど皇位継承から思い切り外れた人物だった。

 捕捉だが、彼は平家追討の令旨を出し、以仁王の乱を起こしたのは彼の弟である高倉天皇が即位したことから皇位継承を完全に絶たれたことに対する平家への恨みからである。

 話がそれたが、そんな人物の子を天皇にすることはハッキリ言うと常識外であり論外である。

 これには九条兼実も「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」として、義仲に対して苛立ちを感じていたほどである。

 本来、単なる武士が口出ししていい問題ではないのだ。それに、高倉天皇の子がいた為、最終的に尊成親王、後に後鳥羽天皇と呼ばれることになる彼が天皇となった。

 この義仲の余計な口出しは、伝統や格式の中で生きる貴族は無論のこと、治天の君として君臨する後白河法皇にとっても「しょせんは信濃の田舎武士」という認識を与えることになった。

 義仲はずっと木曽の山中で暮らしていたために、こうした貴族たちとの付き合いも教養を積む機会もなかったために、孤立することになった。

 そして、もう一つの問題だが、上洛してからというものの、治安が一気に悪くなり、遠征で疲れ切った武士たちがその場で現地調達、というよりも略奪をし始めたのである。

 もともと、飢饉の影響もあり、食糧事情が極端に悪化していたことや、義仲と共に上洛してきた武士団は近江や美濃、そして摂津源氏の混成軍であり、義仲がすべてを統率する状態ではなかったのである。

 その対処に追われながらも、結果として兵を統率することもできないと義仲は評判もがた落ちすることになり、後白河法皇も義仲を呼び出し、自ら剣を与えて出陣させた。

 義仲も収集がつかない事態を打開するべく、西国に逃走した平家を追撃したのだが、ここで義仲の運が尽きたのか、思ったような戦いができず、水島の戦いでは有力武将たちを失うほどの大敗をうけるなど、かつてあった勢いが完全に止まってしまった。

 そんな状況の中で、朝廷に頼朝からの書状が届いた。内容としては

 平家横領の神社仏寺領の本社への返還、平家横領の院宮諸家領の本主への返還、降伏者は斬罪にしないという条件を提示した。

 特に、平家が横領していた院や貴族たちの所領を返還という提案は、困窮していた朝廷と貴族たちにとって非常に魅力がある提案だった。

 この提案に喜んだ後白河法皇は頼朝の朝敵解除と共に、もともと頼朝がついていた右兵衛権佐の地位に戻し、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与えたのであるが、面白くないのは義仲である。

 もともとライバルであり、平家よりも憎い相手と言ってもいい頼朝に、自分の根拠地でもある信濃まで与えるようなやり方に義仲は大いに不満を感じた。

 さらに後白河法皇は頼朝に上洛を促しており、義仲はこれに慌てて西国での戦を切り上げて少数の軍勢で帰京した。

 そして後白河法皇に「生涯の遺恨」として、上洛を促し、宣旨を下したことを猛抗議し、西国は伯父の志田義広に任せ、頼朝追討を命じるように要求したのであった。

 この時点で義仲の敵は平家ではなく頼朝に完全に切り分かっていたのだが、後白河法皇は当然この案を却下した。

 頼朝の提案は自分たちにとってプラスになる提案である上に、寺社勢力をも味方につけるという非常にメリットが高い代物である。

 その上で、頼朝は義仲をけん制するかのように、志田義広が上洛したこと、義仲が平氏追討をせず国政を混乱させていることを理由に、義仲に勧賞を与えたことを「太だ謂はれなし」と抗議した。

 ここで、後白河法皇は義仲に見切りをつけ始めていた。義仲は確かに平家を都落ちさせているが、現在では西国で苦戦している。さらに言えば、今だに京の治安を回復することが出来ない単なる戦バカであることが露呈した。

 いや、その肝心要な武力ですら、水島で大敗し、平家のホームグラウンドである西国では苦戦を強いられている。後白河法皇から見れば、義仲がこれまで戦い続け、勝利してきたのは単なる運に過ぎなかったと認識してもおかしくはないほどだった。

 そして、頼朝は弟である義経と範頼に大軍を率いさせて京へと進軍させていた。そして、義経の軍勢が美濃の不破の関に到達したという知らせを受けた義仲は戦う覚悟を決めた。

 後白河法皇も、頼朝軍入京の報告から、義仲を京から放逐する覚悟を決めたのである。

 そこで後白河法皇は自分の御所である法住寺殿に堀や柵を巡らせており、延暦寺や園城寺の僧兵は無論のこと、摂津や美濃の源氏、さらにはゴロツキまでかき集めて数の上では義仲を上回る軍勢を作り上げた。

 だが、流石に苦戦しているとはいえ義仲の軍事力は本物である。それに、義仲は頼朝が後白河法皇と手を結んで自分を殺そうとしているのではないかと疑念を持っていることから、その疑念を晴らすように諫める者もいた。

 しかし後白河法皇の悪癖である「一度決めたことは絶対に成し遂げようとする」が発動していたために、周囲の諫言を無視した。

 そして、後白河法皇は自分のお気に入りである院近習、鼓判官こと平知康に指揮を任せた。

 ちなみに彼は平家物語にて義仲にて「和殿(知康)が鼓判官といふは、万(よろず)の人に打たれたか、張られたか」とバカにされた逸話がある。

 一応、彼は北面の武士を務めていたが、どちらかというと彼は武芸よりも鼓の演奏が得意であり、後白河法皇の今様仲間で院近臣になった人物である。

 仮にも、木曽義仲というこの時代屈指の猛将相手に戦える相手ではないのが分かるが、ここでも後白河法皇の悪癖である「自分のお気に入りであれば、その仕事に適していなくても任せる」が発動していたのである。

 また、院近習たちは義仲の横暴に辟易していた上に、上洛後、苦戦している義仲を完全に舐め切っており、義仲に勝つつもりでいた。

 だが、法住寺合戦はたった一日、いや、半日も経たない内に義仲の軍勢に撃破され、後白河法皇は幽閉されてしまったのである。平治の乱、治承三年の政変に次ぐ三度目の幽閉であった。 

 やる夫スレの名作「やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです」では、この決断を「部活動のメンバーの意見で戦争しようとしていた」という酷評している。

 私もこの意見に同意見であり、後白河法皇はこの時56歳になったにも関わらず、全く成長せずにいたのが分かるが、同時に保元の乱の勝利は決して後白河法皇が優れていたからではないのがよくわかる。

 保元の乱では、美福門院や信西が平清盛や源義朝を味方につけ、兵力を整え、崇徳上皇を挑発させ、彼らを賊軍にして自らは官軍とすることで圧倒的優位を保ったままで戦を行った。

 そして、信西は義朝が提案した夜襲や焼き討ちにも賛同しており、ありとあらゆる手段を使ってなりふり構わず勝利した。

 そうしたものを見ていたはずにもかかわらず、後白河法皇はその経験を活かせておらず、逆に兄である崇徳天皇と同じく、負け犬になってしまった。

 最終的に義仲はこれで賊軍になってしまい、頼朝に討伐の正当性を与えてしまうことになり、討ち死することになるのだが、それはまた別の話である。


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