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  • 日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇

    後白河法皇という異端の天皇についてをまとめました。

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山本寛氏は「言論の自由」をご存じではないらしい

 先日、山本寛氏のブログがあまりにもひどい内容だったために反論を書いた。  それなりに反響があり、読んでいただいた方々にはこの場を借りてお礼を申し上げます。  今回はさっそくというか、山本寛氏が再び反論というか、アクションを取られたようなのでそれを読んだのが、あまりにも内容が酷かったので絶句した。  自分が攻撃されたわけでもないのに「無茶苦茶な論理を批判」しなければならないのかと山本寛氏は述べているが、この発言に私は呆れている。  そもそも、現代日本には思想、言論の自

    • 戦争よりも知るべきことがあるはずだ。山本寛氏への反論

       山本寛氏の「戦争を知らない子供たち」という題名のブログを読んだのだが、あまりにも無茶苦茶な論理に私は思わずTwitterでこういうことをつぶやいてしまった。  私もかなり乱暴な言い方ではあったが、その内容には全く共感できることがなかったためにこうつぶやいたのだが、山本氏はこの後にこういうツイートをしてきた。 まあ、確かに私も暴論であったためにそう言われても仕方ないと思ったために、改めて反論をしていきたいと思う。  そもそも、山本氏の主張についてだが、まずはこれである

      • 日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その12

         後白河法皇の無能さを露呈させた法住寺合戦により、彼は再び幽閉されることになったのだが、ここまで読んでくれた方は後白河法皇が単なる無能な暗君であることを理解してくれたと思う。  保元の乱のように、勝つための算段を緻密に練り上げ、いざ戦う時にはなりふり構わずにあらゆる手段を使う。  法住寺合戦はそんな戦いとは全く逆の勝つための算段などなく、不適切な人事を行い、しまいには馬鹿正直に戦い、義仲に鎧袖一触で撃破されるという無様な醜態を晒すことになった。  後白河法皇にはいくつか

        • 日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その11

           上洛を果たして平家を都から追い出した義仲だったが、実は多くの問題を抱えていた。  まず、平家は安徳天皇を連れて逃げたために都に天皇がいないというとんでもない事態になったのである。  そのため、安徳天皇に変わる帝を選ぶ必要性が出てきたのだが、ここで義仲は何を思ったのか自分が保護していた以仁王の子、北陸宮を推挙した。  義仲としては、平家がこうして都落ちしたのは以仁王が討伐の令旨を下したからであり、その功績をもって遺児となった北陸宮を天皇へと即位させようとしたのである。

        山本寛氏は「言論の自由」をご存じではないらしい

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        • 日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇
          12本

        記事

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その10

           前回が後白河法皇が日本一の大天狗と呼ばれた理由についてまとめた。  今回は、後白河法皇が盛大にやらかした木曽義仲との戦いである法住寺合戦についてまとめる。  まず、この合戦の説明に入る前に、後白河法皇と対立することとなった旭将軍、木曽義仲について解説する。  木曽義仲は源義賢の子として産まれた。義賢は源頼朝の父、義朝の弟であり、義仲と頼朝は従兄弟の関係にあたるのだが、この二人にはとてつもない遺恨があったのである。  というのも、頼朝の父である源義朝は非常に素行不良な

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その10

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その9

           土佐坊昌俊は平家物語によれば、頼朝より命を受けて義経討伐を行うために鎌倉を出発し、上洛したという。  実際、彼は義経を襲撃し義経を殺そうとしたが、頼朝からの刺客というのはあくまで義経側の主張にしかない。  これに関して、呉座勇一先生は頼朝が誰かを粛清する時には、必ず鎌倉にて実行させている点を指摘している。  例えば、現在鎌倉殿の13人にて、佐藤浩市氏が演じている上総広常は、鎌倉の頼朝邸にて双六をしている時に、梶原景時に粛清された。  また、甲斐源氏の有力一門であった

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その9

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その8

           後白河法皇は暗君であった。だが、何故現在に至るまでに策謀家と今もなお、そのように評価されている。  原因をまず一つあげると、源頼朝が彼を「日本一の大天狗」と呼んだからだろう。  源頼朝は鎌倉時代という新しい時代を築き、武士の時代を作り上げた偉大な人物である。  彼は深謀遠慮の人物であり、巧みな戦略で坂東に勢力を確立させ、平家を滅ぼした後も、平家のような転落することなく、鎌倉殿という統治機構を作り上げた天才であった。  そんな彼を振り回したということで後白河法皇は相対

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その8

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その7

            前回は後白河法皇が再び院政を停止させられたことをまとめた。  今回は改めて、後白河法皇という人物の性格やパーソナリティについてまとめていく。  後白河法皇はここまで読んでくれた方ならば分かるが、政治家としては決して有能ではない。  むしろ、無能でありそれも非常にたちが悪い自分でアレコレ支持を出して活動を行うタイプの無能である。  平治の乱の際までは信頼を制することが出来ず、そして信西を庇うこともできずに後白河法皇は側近である信西を失い、そして、自分の寵愛を受けなが

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その7

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その6

           前回は鹿ケ谷の陰謀とそれに伴って後白河法皇と平清盛が対立する原因となった、比叡山の強訴についてまとめた。  あの一件により、平清盛は後白河法皇と決別していくのだが、二人はまだ完全に決別していたわけではない。  鹿ケ谷の陰謀にて、藤原成親や西光を殺したが、ほかの近臣たちはあくまで免官で済ませていた。  この二人の間が完全に破綻したのは、平清盛の息子であり、後白河法皇とのパイプ役を担っていた平重盛が亡くなったからである。  重盛は鹿ケ谷の陰謀で清盛に、義兄であった藤原成

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その6

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その5

           前回は嘉応の強訴が最終的に後白河法皇は延暦寺の強訴を受け入れつつ、裁定をひっくり返したことをまとめた。  当然ながら比叡山延暦寺はこの決定に恨みを抱いた。  この後に延暦寺は白山事件という強訴を起こした。  今度は加賀守・藤原師高の配流を要求してきたのである。  原因は後白河の近臣である西光の子・師高が加賀守に就任し、同じく子の藤原師経がその目代となり、師経が白山の末寺を焼いたことに激怒した白山の僧侶が延暦寺に訴えたのである。  後白河法皇は目代・師経を備後国に流

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その5

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その4

           二条天皇は若くして崩御した。この崩御は後白河法皇が名実ともに治天の君として君臨するための契機となった。  だが二条天皇は無くなる前に、息子である順仁親王に譲位し、死してなお後白河法皇による院政を阻もうとしたのである。  こうして六条天皇は即位したが、二条天皇という英明な君主の死は旧二条派にとっては大きな痛手となり、後白河法皇とも親しかった平清盛は後白河法皇に急接近していった。  六条天皇は現在に至るまで歴代最年少での即位した天皇である。即位した時は、数え2歳(満7か月

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その4

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その3

           前回は平治の乱についてまとめたが、平治の乱の原因とはなんだのか?  最大の原因を探っていけば、信西と信頼の対立を収められず、政治的な主導権を持てなかった後白河法皇の責任に帰する。  もっとも、二条天皇のつなぎで天皇になっただけに過ぎない上に、政治家としての実務経験もなければ、政治家としてのキャリアも積んでいなかった後白河法皇にそこまでの責任を持たせるのは酷にも思える。  だが、信頼のように、後白河法皇の寵愛を受けて出世したにも関わらず、最終的に後白河法皇を幽閉してしま

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その3

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その2

           前回は後白河法皇が即位に至るまでの経緯と、最初の危機であった保元の乱についてまとめた。  保元の乱から三年後、後白河天皇は息子である守仁親王に譲位し、自ら上皇となった。  守仁親王は二条天皇として即位したのだが、この時15歳であった。その為、治天の君となったわけだが、後白河法皇には頭が上がらない人物がいた。  自分を天皇にして、さらに一応治天の君の地位にした美福門院である。  そして、彼の側近であった信西である。  信西はもともと藤原通憲という代々学者の家系に生ま

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その2

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その1

           鎌倉殿の13人が放映されてすでに三か月が経過している。  この時代のキーマンとされる後白河法皇は治天の君として約40年もの間君臨し続けた。  そのために、平清盛や源頼朝といった、この時代きっての切れ者たちすら振り回し、日本一の大天狗と呼ばれた策謀家として多くの人に認識されている。   ところが、その実態を調べていくととてもではないが、策謀家とは言えず、ましてや平清盛や源頼朝を振り回しはすれど、結果として、彼らの言いなりになり窮地を作るというお粗末な結果を繰り返している

          日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その1

          だからあなたは政治家になれない

          小泉進次郎氏と滝川クリステルさんが結婚された。 おめでたい話ではあるが、そのおめでたさをぶちこわす記事を見た。 今年の春、呉座勇一氏と論争してフルボッコにされた挙げ句、完全敗北という名の「痛み分け」でアゴラ編集長である新田哲史氏に尻ぬぐいしてもらった八幡和郎氏である。 氏はこの記事の中でこんなことを書いていた。 「かつて私は小泉進次郎待望論に対して、受験・就活・結婚という人生の三大苦労を経験してない彼には、「一国のリーダーが務まるのであろうか?」と問題提起をした」

          だからあなたは政治家になれない

          スポーツほどギャンブルに適した興行はない。

          かつてプロ野球を震撼させるほどの大不祥事があった。 1969年から1971年にかけて行われたとされる野球賭博、その過程の中で「八百長」をしていたことが発覚した黒い霧事件である。 NPBでは現在に至る中でこのような取り決めが存在する。 野球協約第三百五十五条(敗退行為)  『クラブの役職員または選手及びコーチを含む監督が試合で敗れ、または敗れることを試み、あるいは勝つための最善の努力を怠り、またかかることを通牒するものは所属する連盟会長の要求に基づきコミッショナーにより

          スポーツほどギャンブルに適した興行はない。