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『オルフェウスの魔女』

◯創作同人季刊誌『OLfE』vol.001創刊号に寄稿した短編小説です。
◯ひとりきりの少女と、図書館で出会った魔女の物語。

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 ――決して振り返ってはならない。その冥府を抜けるまでは、ね。

 『オルフェウスの魔女』

 もう誰にも使われていない校舎の旧図書館が、わたしの居場所だった。
 授業が終わると一目散にそこに向かう。誰よりも早く教室を出る。今日の夜にやるテレビ番組や明日出さなくちゃいけない宿題について話す友達なんて、わたしにはいない。部活なんてもちろん入っていない。かといって、早く帰ってしまえば、わたしがこんなであることが母にバレてしまう。
 そんな、わたしの居場所。
「くしゅん」
 寒気にからだを震わせながら、わたしは廊下をうつむきながら歩いていく。できるだけ早足で。できるだけ目立たないように。すれちがう生徒から向けられる好奇の目を背中に受けながら、クスクスという小さな笑いに耳を塞ぎながら、わたしは居場所へと向かう。
 耐震性に問題があるとかで、かといって取り壊す予算もつかず放置されていた木造の校舎。学校の怪談の舞台になりそうなそこは、まるで幽霊でも出てきそうな佇まいだった。ここなら誰も近寄らないだろう。誰もわたしを笑わず、誰もわたしに酷いことをせず、海底で眠る貝のようにじっとひとりで過ごすことができる。入学したてのころのわたしはそう目論んでいたのだが、そこには先客がいたのだった。
「やっほ。相変わらず暗い顔をしているね」
「やぁ。相変わらずひどい言い草」
 読んでいた本から顔を上げて、彼女がこっちに手を振った。
「また今日もびしょ濡れだね。風邪を引いちゃう前に脱いでしまえ」
「言われなくてもそうする。こっち見ないで」
 わたしは彼女に言われるがままにセーラー服を脱いでいく。はじめのころこそ他人の前で服を脱ぐのはためらいがあったのだけど、いまやもう慣れてしまった。それに制服がこれほどまでに濡れていると、母に怪しまれてしまう。さいわいここには電気ストーブもあるし、控室には毛布もあったから助かっていた。びしょびしょで気持ちの悪い紺ソックスを脱いで、毛布を羽織る。
「くしゅん」
「ほら。暖かくしないと。もう冬だから気をつけないとね」
 彼女は淹れたてのコーヒーを差し出してくれた。この旧図書館に残されているポットやらなんやらが、学校の備品なのか彼女の私物なのかはわからないけれど、わたしたちはそれを自由に使っていた。
「君が風邪をひいて学校を休んだから、寂しいからさ」
 彼女の淹れたコーヒーは苦すぎず、薄すぎず。わたしの猫舌を考慮してぎりぎりの熱さに調整されている。ふーふーした湯気で眼鏡が曇り、世界が白く塗りつぶされていく。
 かつては雑巾を乾かすのに使われていたであろう小さな物干しに、いつものように制服や靴下を並べていく。ここでこんがり一時間。そしたら裏返してもう一時間。そのころには、いかにも部活を終えて帰るような時間になっている。しっかり電気ストーブで暖められた制服は、帰るころにはほっかほかになっている。
 傍らに置いてある消臭剤をさっさっとかける。トイレでかけられた水だから、臭うといけない。

 ※

「このあいだのテスト助かった」
「せんぱいは頼りになるでしょー」
 彼女はほとんど百発百中でテストの内容を予言してくれる。曰く『この高校の先生はみんな怠け者だから、テストの内容、毎年同じなのさ』とのことだった。これは非常に助かっていた。母に成績のことで怪しまれないように、授業は可能な限り集中して受けたいのだけど、いろいろなところから鉛筆や消しゴムが飛んできたり、せっかく取ったノートも翌日にはゴミ箱か便器の中にあるため、ままならなかったのだ。

 ※

「やっほ。相変わらず暗い顔をしているね」
 わたしは彼女の名前を知らない。唯一わかるのは、制服にⅢの校章がつけられていること。つまり三年生。わたしの胸元にはⅠがつけられている。受験生だからこんなところでだらだらとしている場合じゃないと思うのだけど、いつもわたしより早くこの旧図書館にいる。もしかしたら一日中いるのかもしれない。わたしのように居場所がないのか、それともここが好きだからいるのか、まだ訊けていない。
「わたしのことは、《オルフェウスの魔女》と呼ぶといい」
「は? ゲームですか。ラノベですか」
「失礼な。ほら。りぴーとあふたみー」
 はじめてあったとき、彼女はそう名乗った。その長ったらしい名前は最初の頃こそちゃんと呼んでいたが、次第にその名前を使うことがなくなっていった。この旧図書館にいるのはいつもわたしたちふたりで、会話はすべて一人称と二人称で済んだからだ。
 しかし、その奇妙なニックネームはずっと耳に残っていた。オルフェウス。わたしの好きなアーティストが、その神話をもとにした曲を作っていた。
 曰く、彼が竪琴を弾くと、森の動物たちばかりでなく木々や岩までもが彼の周りに集まって耳を傾けたと言われる。たしかに彼女の声は独特の波長があって、この静寂に包まれた図書館でよく響いた。いつも蚊の鳴くような声で喋り、授業中当てられたときも何度も聞き返されるわたしとは大違いである。
 オルフェウスは亡くした妻を蘇らせるため、冥府へ赴く。冥府の主を竪琴で説得し、ある条件付きで、妻を連れ出す約束を取り付ける。
「それからどうなったんだっけ……」
 そのアーティストの曲はいくらか脚色がされていたから、わたしは旧図書館で、その神話の載っている本を探した。オルペウスという見出しでその項目はあり、わたしはかじかんだ手でページを捲った。
「気になるんだ?」
「ひゃあ」
 後ろから彼女に声をかけられて、わたしは軽く飛び上がってしまった。彼女にばれないように、机のあるスペースではなく、この書架の陰でひっそりと読んでいたのに。背中に立たれるまでまったくその気配を感じなかったほどに、わたしはこの本に集中してしまっていたのか。
「教えてあげよう」
 すると彼女はわたしからその本を奪い、まるで舞台で朗読するかのように立ち振る舞った。舞い上がったほこりとそれに反射された夕日がライトとなって魔女を照らす。観客はわたし、たったひとりだ。
「見るなのタブー、『冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない』という約束を肝に銘じていたオルフェウスではあったが、目の前に光が見え、冥界からあと少しで抜け出すというところで、不安に駆られた彼は後ろを振り向き、妻の姿を見てしまう。それが最後の別れとなってしまうのだった」
 謳うように、囁くように、哀しげな音色を響かせながら魔女は読み上げる。
「君も憶えておくといい」
 本を閉じた魔女はわたしにそれを返し、こう言うのだった。
「決して振り返ってはならない。その冥府を抜けるまでは、ね」
 それはオルフェウスの神話からの引用ではあるものの、わたしに宛てたメッセージであるように思えた。彼女がなぜ《オルフェウスの魔女》とかいう不可思議な名前を名乗っているのか、その由来はいまいち判然とはしなかったが、そのことだけは理解できた。
「暗くなる前に帰るといい。あんまり遅くなると、お母さんも心配するよ」
 そんなことを言って、魔女は離れていった。時計を見るとたしかにそれもそうで、わたしは慌てて荷物をまとめた。電気ストーブにあてていたほかほかの制服を着て、旧図書館を出るときに、わたしは一度振り返った。
「あなたは帰らないの?」
「わたしはこの本を読んだら帰るよ」
「いつも何の本を読んでるの?」
「わー、見ちゃダメ。えっと、その、十八禁だからこれ。わたしは読めるけど、あなたはまだ十六歳でしょ!?」
 と慌てられた。いつも余裕たっぷりの彼女がこんなに慌てるのは見ていて愉快だったから、あの手この手で覗き見ようとしながら、ふたりで笑いあった。組んず解れつの押し問答を繰り返し、気がつけば一時間が経過していた。
「それじゃ、気をつけて帰るんだよ」
「あなたもね。《オルフェウスの魔女》」

 ※

 家に帰ってから、わたしはそのオルフェウスの神話の本をかばんに入れてきてしまったことに気がついた。改めて読み返してみると、その物語は、オルフェウスの魔女が朗読した部分のあとにも続きがあった。
 妻を取り戻せなかったオルフェウスは、オルフェウス教というものを創始したが、神々の反感を買い、マイナスと呼ばれる女たちに八つ裂きにされてしまう。首と竪琴はレスボス島に流れ着き、琴座として天に上げられるのだった。そうして、彼は冥府でもう一度妻に逢うことができた。
 というものだった。
 たしかに悲惨な内容ではあるものの、ここまでやってこそオルフェウスという物語は完結するのだろう。妻に再会できたという救いもある。オルフェウスの魔女がこのことを知らなかったわけがない。ということは、あえて省いたのだ。おそらく『冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない』というメッセージを伝えるためだけに、彼女はあの物語を朗読したのだろう。
「でも。なんで?」
 まさかオルフェウスの神話のようなことが現実に起こるわけもないし、抽象的すぎて、何の教訓にしたらいいのかわからない。『後悔するな』みたいな月並みなメッセージでもないだろう。魔女の飄々とした顔が脳裏に浮かんだ。

 ※

「ねえ、お母さん。今日はね、授業で国語の先生に褒められたんだよ。着眼点が鋭くて繊細な感性を持っているだって。小さい頃から本を読んでいただけなのに、みんなの前でそんなに褒められると困っちゃうよね」
「……そう」
「期待しててね。期末テスト。それとね、部活も。みんなすごいチームワークで頑張っているんだ。わたしも一年生だけどレギュラーに選ばれてね、大変だけど、うん、頑張ってるよ」
「……そう」
 投げかけた言葉はいつもまともに返ってこない。母の買ってきた特売のカップラーメンをふたりで啜りながら、この重苦しい重圧に耐えるのがいつものわたしの夕食だった。父が出ていってから、母は急激に老け込んでしまった。『……そう』だけであっても、返事が返ってくるだけ今日は調子がいい。
 不意にカップラーメンの中に、溶け切っていない粉末スープの塊があることに気がついた。わたしは箸を止め、胃からこみ上げてくるものを必死でせき止める。昼休みに購買で買ってきた惣菜パンに無理やり入れられた、虫の死骸によく似ていた。
「ねえ、お母さん。わたしね、実はね、」
 わたしは自分が何を口走ろうとしているのか気がついて、ハッとした。母をこれ以上追い詰めるわけにはいかない。頬の筋肉を全力で動かして、目を細めて、ぎこちない笑みを作る。
「学校、とても楽しいんだ」
「……そう」

 ※

「やっほ。相変わらず暗い顔をしているね」
「やぁ。相変わらずひどい言い草」
 死んでしまいたいほどつらいことがあっても、オルフェウスの魔女がいれば耐えられた。
 彼女と他愛もない会話をしていれば、昼間のことなんてちっぽけなことのように思えたのだ。いつもびしょ濡れで図書館にやってくるわたしに、彼女は当たり前のように接してくれる。ふつうなら、自分に被害が及ぶことをおそれて距離を取ると思うのに。入学時に友だちになれるかなと思っていたあの娘たちのように。
「魔女、あなたに何か訊きたことがあったんだけど、何だったっけ」
「忘れたのなら、きっとたいしたことじゃないさ」
 それからいつものように他愛もないやりとりを続けた。制服を電気ストーブの前に干して、毛布を被る。このあいだ魔女から借りた小説についての話でぽつぽつと盛り上がった。魔女はわたし以上にこの図書館にこもっているので本に詳しく、まるでソムリエのようにわたしに数々の素敵な小説を薦めてくれた。
「最後の主人公の独白がよかった」
「わかるよ。序章との対比になっているんだよね、切ないお話だ」
 魔女の薦めてくれた本はどれもハズレがなく、とてもおもしろかった。不思議なのは、その推薦は一般的に面白いとされる本やたくさん売れた本ではなく、マイナーだけれども、わたしのツボに刺さるというものばかりだった。
「次はこれを読んでみるといい。きっと気にいるよ」
 魔女は得意げに笑った。
 彼女がいなかったらと思うとゾッとする。この執拗ないやがらせと、抜け殻のようになってしまった母とのあいだで、わたしは早々に潰れていたに違いない。わたしのこころを読んでいるように、遠くでコーヒーを入れている魔女がこちらを見ながらにやにやしている。たしかに感謝はしている。でも、こんなこと本人には絶対に言ってやらない。
「あ。そうだ。わたし明日休むからね。ここに来ても誰もいないよ」
「へ? 珍しい。なんかあるの?」
「模試を受けたくないだけさ。ほら、わたしこれでも三年生だし。だからさ、君も無理して学校に来ることはない。風邪でも結核でも存分に引くがいいさ」
 急にそんなことを言ってきた魔女に、わたしはきょとんとした。
「でも、」
「サボるのに罪悪感があるのかい。でも、わたしと共犯なんだ。罪悪感は半分こ。たまにはいいじゃないか」
 共犯と言われたら、なんだか悪い気はしなかった。あまり母に心配をかけたくないから、できれば病欠もしたくなかったのだけど、こうして放課後に魔女とお話できないのは耐えられないような気がした。
「決まりだね。明日はしっかり休んでよ」
 せっかくだし、今日借りた本をじっくり読んでいよう。ところでオルフェウスの魔女に帰る家なんてあるのだろうか。ひどく失礼な物言いかもしれないが、彼女がこの図書館以外の場所にいることが想像できないのだった。

 ※

 風邪で休んだ翌日、わたしが教室に顔を出すと、机の上が酷いありさまだった。まぁ、らくがきくらいなら慣れているからいいのだけど、その日は格段にレベルが違った。机の上に刺さっている無数のカッターナイフを抜いて、なんだかよくわからない汚物をティッシュを拭い取る。さて、と椅子に腰掛けるとおしりに画鋲が刺さっていた。
「うっわ、かわいそー」
「いくらなんでも、昨日のミキは荒れ過ぎだよね」
「あいつの風邪、タイミング良すぎじゃない? 昨日来てたら殺されてたよ」
 どうやら、そういうことらしかった。

 ※

「やっほ。相変わらず暗い顔をしているね」
「やぁ。相変わらずひどい言い草」
 その日もわたしはいつものように旧校舎の図書室を訪れ、濡れた制服を電気ストーブで乾かしながら、毛布を被っていた。オルフェウスの魔女がわたしにコーヒーを差し出してくる。苦すぎず、薄すぎず。わたしの猫舌を考慮してぎりぎりの熱さ。すごくちょうどいい。
「一日逢わないだけで、だいぶ寂しいものだね」
「そうかな」
 わたしは強がりを言った。そのことを魔女は見透かしているのか、にやにやしながらコーヒーを啜っている。少し悔しい。借りていた本の感想を言い合って、また新しい本を借りた。このあいだの本もわたしの好みにピンポイントに刺さっていた。きっといま借りた本も、わたしはハマってしまうのだろう。魔女の薦め、なのだから。
「ねえ、魔女。あなたほんとうに昨日休んでいたの?」
「ああ、そうさ。酷いエボラ出血熱でね。いまはもうピンピンしているが」
「魔女は嘘もつくんだねえ」
 できる限り平静を装ってそうつぶやくと、図書館を包む緊張感が一気に増した。わたしはいま取り返しのつかないことをしている。魔女はどんな表情をしているだろうか。怖くて、振り向くことができない。
「昨日、わたしね、魔女がいつも読んでいる十八禁の本が読みたくて、学校に忍び込んだんだ。もちろん学校は休んだよ。ありがとう、おかげで色々なものを回避できたような気がする」
「……まぁ、魔女っていうくらいだから、嗜みとして嘘のひとつでもつかないとね」
 呆れたように、彼女はそうつぶやいた。
 昨日、わたしはひとりきりで本を読んでいることに耐えられず、ふらふらと家を出たのだ。とはいえ、わたしに行き先なんてない。同世代の友達が集まるところには用事がないし、本屋さんに行こうにもお金がない。わたしの居場所はひとつきりしかなかった。
 せっかくだから、魔女がいつも読んでいる本を盗み見てやろうと思った。いったいどれほどの変態プレイが描かれているのか正直わくわくしながら、旧校舎の廊下を歩いていた。図書館に灯っているひかりを見つけてからは、気配を殺した。
「……」
 小さな嗚咽が聞こえてくる。静かに木製のドアを開けると、魔女が例の本を読みながら涙を流していた。いつも飄々としている彼女にあるまじき、それはとても弱い姿だった。見るなのタブー。見てはいけないものを見てしまったような気がして、わたしは音を立てずにその場を去った。
 その嘘。そしてあまりに都合が良すぎるタイミング。嘘をついてまでわたしを欠席させたのは、なにが起こるのかわかっていたからで、それはきっとあの日のわたしを救うためだ。それがいかに不自然だと思われても、魔女はわたしを回避させたかった。
「なるほど。思ったより早くにたどり着いたね。オルフェウスの魔女の正体に」
 そこに気がつけば、手がかりは多く残されていた。わたしのマイナーな読書の好みを次々と突いてくるところ。こんな目にあっているわたしを忌み嫌わないこと。しゃべるのが下手で口ごもっているわたしの言葉を、きちんと待っていてくれること。まだ四月だというのに、わたしの年齢を十六歳と言い当てたこと。絶妙な加減のコーヒーや、ふとした優しい一言。それらすべて、オルフェウスの魔女が誰であるかということを指し示していた。
「未来の、わたし」
「半分正解」
 魔女はまるで愛おしいものを見るかのような目で、わたしを見つめる。
「未来の君は二年後にここで首を吊るのだが、わたしはその幽霊さ」

 ※

 死んでしまいたいほどつらいことがあっても、オルフェウスの魔女がいれば耐えられた。
 じゃあオルフェウスの魔女は?
 かつてここで首を吊ったわたしは、当然のことだがオルフェウスの魔女に出逢うこともなく、どうやって三年生まで生き抜いたのだろう。いや、もうひとつ気になることがあった。そこまで生き抜いたわたしは、どうして三年生の春に自らのいのちを絶ったのだろう。

 ※

「なんだか照れるね」
「じゃあ読ませないでよ」
「冗談だよ。君が読むべき物語だ」
 そこにはオルフェウスの魔女が、つまり二年後のわたしがここで首を吊った経緯が克明に記されていた。その当時のミキの彼氏がわたしを庇ったとかなんとかって噂が立ったらしく、わたしは待ち構えていた男子生徒数名から肉体的に尊厳を蹂躙された。一人称視点がわたしであるそのありさまが、その本にはありありと記されていたのだ。
 わたしは何度も吐き戻した。最後には胃液すら出なくなったが、それでも生理的嫌悪感は絶えず襲ってくるのだった。
「あー、そこしんどいよねー。わたしも当時きっついなーって思っていたよ」
「……なんで」
「わたしはここで君を待っているあいだ、何度も何度も読み返したからね。ああ、そこからまた一段ときついことされているから、覚悟してページを開いてね。未成年者には刺激が強い描写だよ!」
 十八禁と魔女が言っていたのは、この本を読ませないための嘘ではなく、ほんとうのことだったのだ。とはいえ、これを十八禁と呼ぶにはあまりに趣味が悪すぎる。こんなもの未成年どころか誰が読んだって――、うっわ、一段ときついってこれか……。えぐすぎる。
「終わった? その椅子を蹴ってからの描写もなかなかきついよね。即死できなかったからしばらく苦しむ描写が続くけど、我慢して。どこの誰が書いているのか知らないけど、赤裸々すぎるよね」
 最後の行を読み終わる頃には、わたしはもう立っていられないほどだった。
「……あなたはこれを読ませるために?」
「半分正解」
 息も絶え絶えのわたしを、オルフェウスの魔女が飄々と見下ろしていた。
「これを読ませるために、わたしはこの旧校舎の図書館で待っていたのだけど、本音はちょっとちがう。できれば、君にこれを読ませたくはなかった。だって、そうだろ。これを読ませるだけだったら、さっさと自己紹介をして君に経緯を説明している。謎解き小説じゃないんだから、別に伏せる必要性はどこにもなかった」
「なら、どうして……」
「君ともっと一緒にいたかったからさ。なんならずっと伏せておくことだってできた。でも、それじゃわたしがここに残った意味がない。だから、君がわたしの正体にたどり着いたら、そのときは覚悟を決めようと思っていた」
 見れば、少し大人びたわたしの身体が透け始めていた。そこにあった存在感が急激に希薄になっていくのがわかる。わたしは慌てて立ち上がり、魔女に触れようとしたが、わたしの指は儚くもすり抜けてしまう。
「なんで!?」
「君がこれを読んだからさ」
 オルフェウスの魔女は、二年後に死んだわたしは、そう言って笑っていた。
「君がこれを読んだことによって、未来は変わった。君はこう思っているはずだ。このまま現状を我慢していってもいずれ詰んでしまう。もう母のことなど気にせず、ありのままを相談してみるか。あるいは児相か、警察か。どんなに恥をかいたって、死ぬよりはマシだ! ってね」
 演技がかった口調で、魔女は朗々と喋り続ける。
「その君の意志が、いま未来を書き換え続けているのさ。だから、二年後に死んだわたしはこうして舞台から降りる。ああ、勘違いしないでくれ。わたしという結論にたどり着かないだけで、二年後に死なないとは言ってない。もっと早く死を選ぶかもしれないし、泥水をすすってでも生き延びるかもしれない」
「いや!」
 わたしはなぜか叫んでいた。魔女はきょとんとする。
「あなたともっと一緒にいたい……。魔女、君はわたしだけれど、はじめて出来た友達なんだよ。もっといろんな本を教えて欲しかったし、他愛のない会話に付き合ってほしかった。もっと、もっと!」
 わたしは必死に自分を否定した。二年後にあんなことになる? 上等だ。二年間、オルフェウスの魔女と一緒にいられるなら、わたしなんてどうなったっていい。あの結論をわたしは望んでいる。わたしはそう、自分に言い聞かせる。
 魔女がそっとわたしを抱きしめた。すでに感触はなかったが、ぬくもりは伝わってきた。
「わたしにとっても、君がはじめての友達なんだよ。うん、もっと一緒に色々なことを話したかった。でも、ダメだ。覚えているかい、オルフェウスの神話を。君は、これを最後の別れにしなければならない」
 わたしはようやく理解した。魔女があのとき伝えたかったことを。
「決して振り返ってはならない。その冥府を抜けるまでは、ね」
 わたしはすでに、オルフェウスの魔女がいるところから、背を向けて歩き始めたということを理解した。わたしを抱きしめていた優しいぬくもりは幻のように消えて、旧図書館にはわたしひとりが取り残された。立ち上がったのは何時間後かわからない。外はもう暗くなっていた。ぬくもりはもう、どこにもない。
 わたしは頷く。
 いつかこの冥府を抜けることが出来たなら。
 いつか、その日まで。

 ※

 古びた木製の扉を開ける。
 すると君はいつものように本を読んでいて、こちらに手を振るだろう。
『やっほ。相変わらず――、なぁんだ、けっこういい顔してるじゃないか。つまらない』
 意地悪な君はきっとそう言うから、わたしはこう返すんだ。
「やぁ。相変わらずひどい言い草」
 わたしたちはあの日のように笑う。
「まぁいいや。たくさん話したいことがあるんだ」

いただいたサポートは、山田とえみるさんの書籍代となります。これからも良い短編小説を提供できるよう、山田とえみるさんへの投資として感謝しつつ使わせていただきます!(*´ω`*)