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この本を初めて読んだとき、これは私が物語の中に入ったのではなく、物語が私の中に入ってきたのだと思った。

この物語はSNSや検索エンジンといった私たちの生活から切っても切り離せないものから、性的少数者といった社会性マイノリティというマジョリティ側からしたら関係ないと切り離したい人も居るであろうことが多く描写されている。主人公は女子高に通う高校生であるため「女子校あるある」や「思春期あるある」として揶揄し切り捨ててしまわれてしまいそうな部分もあるが、それを含め生々しさで目を背けるべきではないと感じる。

私は二十数年生きてきて他者と様々な形で関係を築いてきた。他人から知り合い、友人から親友、そして恋人。その中で私はまだ「かけがえのない他人」に出会えていないように思う。
私はよく「友だちがほしい」と言っていた。私の中の友だちは唯一無二の存在で代わり映えのない愛が形を持った存在である。この本の主人公、松井まどかはそれを「かけがえのない他人」と表現している。この表現を目にしてずっと私が一番良い形で言語化できなかったものが一番良い形で言語化されたと思った。

 うみちゃんとまどかが、かけがえのない他人同士になるのは難しそうだった。
 かけがえのない他人、は、まどかにとって特別な意味を持つ言葉だ。
 ホットケーキを食べたりおてがみを送ったりするような普遍的なことをしていても世界がきらめいて見えるような、他の人では代替不可能な関係のことを、かけがえのない他人同士と名付けていた。ぐりとぐら、がまくんとかえるくんのような二人組に憧れていた。子どもじみた言い方をすると『最強の友だち』だったが、それは友だちの延長線上にあるようで、ないような気もした。
P.25

「かけがえのない他人」に対する想いは殆ど偶像崇拝だ。
ぐりとぐらやがまくんとかえるくんのような関係を人間が築こうとすると、それは恋愛や交際が付随していなければならない。しかし恋愛や交際で自由を奪われたり相手の優先順位を一番にしなければならないことは、ぐりとぐらやがまくんとかえるくんとは異なるものになる。
しかし、私はそれを理解してなお、これからもかけがえのない他人を求めるのだろう。

この「かけがえのない他人」の他にも、私の心に居座っているものがある。
まどかは生理を止めるために低体重を維持していた。まどかにとっては低体重を維持するのは手段に過ぎず目的ではないのだが、他人の目にはそうは映らない。保健室の先生や親の目には拒食症としてしか映らない。
その他にも祖母に「女の子なんだから、体冷やしちゃ駄目よ」とカイロを渡される。それは世間的に女の子はそうあるべきという枠組みに当てはめて、マジョリティの言うことは正しいという前提を元にした発言だとまどかは感じる。そういう「他者から見た何かしらの枠に当てはめられたまどか」と「何者でもない何者にもなりたくないまどか」の間に生まれた苦しみは、私にも心当たりがあったため強く共感しながら読んだ。
まどか「友だちのおじいちゃんがコロナになった」とLINEを送ってきたとき、まどかはその友だちが「家族が病に臥せっている人」にはなりたくないはずだと思いながらかける言葉が見つからず「友だち 家族 コロナ 言葉」で検索しようとする場面がある。それはまどかがされたくない他人を枠組みに当てはめることだと思う。
私も他人に「貴方はこういう人」と枠組みに当てはめられるのは出来るだけ避けたい。しかし、他人に私も「この人はこういう人」と自分の見える色だけで判断していることは多いのではないだろうかと自問自答した。
私はマッチングアプリをやったことないが、マッチングアプリなんかはそれが顕著で「こういう顔で趣味は○○で仕事は△△で年収は□□円」とパッと見で判断できる部分をその人の全てかのように善し悪しを判断しているのではないだろうか。

この本を読み終えてすぐは、心の柔らかい部分に冷たい手で触れられたような感覚があった。しかし、時間が経つにつれてその触れられた部分が熱を持ち私の中を侵略してきた。
読み終えてすぐからこの物語を気に入っていたが、今では、私はこの先の人生、きっとずっとこの本を覚えていて、たまに思い出すのだろうと感じる。

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