いろは歌
いろは歌(いろはうた)とは、仮名文字を重複させず使って作られた47字の誦文(ずもん)。七五調の韻文で作者は不明。のちに手習いの手本として広く受容され、近代にいたるまで用いられた。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔ひもせず
この七五調の歌は、今様と呼ばれる平安時代中期から鎌倉時代初期に流行した歌謡のスタイル。
白拍子など歌舞を演じる遊女が歌い、鼓、笛、笙などの伴奏で、貴族から庶民まで愛好していた。
清少納言は「枕草子」で、「うたは、風俗。神楽歌もおかし。今様歌は、長うてくせついたり」と記している。
いろは歌を記した文献としては最古とされる『金光明最勝王経音義』(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)は、承暦3年(1079年)の成立であることから、いろは歌は10世紀末から11世紀中葉までの間に成立したものとされている。
『いろは歌の仏教的解釈』
諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽
せっせんげ【雪山偈】涅槃経(ねはんぎょう)に出る四句の偈。
釈迦が雪山童子として修行していたとき、帝釈天が羅刹(らせつ)に変じて現れ、前半のみを説いた。釈迦は、後半を聞くために、身体を羅刹に与えたという。いろは歌はこの偈の意をとったものという。
参考
いろは歌の書かれた土器
京都市内の堀河院邸宅跡より、いろは歌が墨書された土器が出土した。
平安末期から鎌倉初期のものとされ、初心者の筆と考えられている。
出典
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