療育にまつわる「からだ」へのまなざしvol.51
2月のバオバヴカフェは、「育児、家事、エッセンシャルワークなどの、不可視化されやすい労働に潜む政治性やジェンダー規範、倫理観に手芸の技法で光を当ててきた」(美術手帖「ケアの思想とアート」2022、vol.74号より)「碓井ゆい」さんの章を読む。話題の中心として、「ケアと女性性」に行き着く感触だった。「女性に生理があることは大きいのでは」「(誰でも)ケアをしたいと思えるようになることが大切なのでは」という意見が出たり、また、ケアということの対極として、以前にも登場した「ケアレスマンモデル」という言葉が出て、「町内会に(そういう人が)多くいるのはなぜ?」というような、身近な話題にもつながっていった。
「ケア」にまつわることは、どうやら、その関係性をみていくことからはじまり、しかも、共に変容することが求められるというか、「する、される」が複雑に絡み合いつつ、その関係性が「心地よい」ところに着地することが大切だということだろうか。
今回扱った碓井さんの作品に触れると、母の行う(家事)労働は、可視化されにくく、母の負担や不満や不平など、「ふ」の字がつきまとう感触は否めない。まさに、「「母」こそ、ケアを求めている!」といった印象があったし、もう少し言うと、今は、誰しもが「ケア」を求めている社会であるようで、この理由は、個人というより、政治、社会構造のようなものに行き着くのかもしれない。
次回は、このテーマの最終回。さまざまな「痛み」をアートとしての価値に変えることを試みてきた、「渡辺篤」さんの章を皆で読みます。3/19、9時よりオンラインにて。
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