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冷水乃栄流「ノットファウンド」


今の時代に書かれたオーケストラ作品について、作者と対話をする企画です。冷水乃栄流さんと「ノットファウンド」についてお話しました。 



朽ちていくことを見届ける


人間不在の滅んだ世界の「第九」。

──文明が退廃した世界で、過去の人類の活動の痕跡が風化し、自然に侵食され遺物となっていく・・・。──(※解説より)


ーー山根:私は第九が崩れてボロボロになっていく綻びの断面がとても美しくて、ゾクゾクしました。

冷水:ベートーヴェンの「引用」っていう視点に縛られるとどうしても、引用部分vsオリジナルの部分という二項対立構造って聴かれることが多くて。

ーー何て言うかな、もっと内側に入っていく感じがするんですよ。遺構(第九)をこう、抱きしめて腐らせる。

冷水:第九に対して愛し憎しですよね。愛憎入り混じるものだと思うんです、むしろ憎しみもけっこうあるかなみたいな。


ーーそれはどういう愛憎ですか?私も、尊敬や愛着に加えて家父長的な__有無を言わさずにこれが素晴らしいものだって小さい頃から刷り込まれた部分に対する、西洋・男性・死者に対する対等じゃない感覚がある。そういうところでしょうか。

冷水:そうですね、まさに仰っていただいた点だと思います。あと憎しみの対象には(第九だけではありませんが)西洋伝統音楽の文脈からくる「合理主義」や「普遍主義」、「近代主義」も含まれると思います。第九の場合テクストがついていて、それがどのような内容か、そしてどのような場面に置いて歌われてきたかということも楽曲に絡みついている。日本においては「音楽には力がある!元気を出そう!」みたいなエンパワメントな言説や振る舞いとも結びついていると感じます。ここについてもまたある種の憎しみがあります。


ーー私は聴いてて優しさを感じるんですよね。言葉が合ってるのかわからないけれど。そのあたりが引用、というよりクラシックの歴史(更には日本でのクラシックの立ち位置)が強く音に紐づいているような素材の扱い方にしても、今まで聴いたことないような質だと私は考えていて。

冷水:優しい・・・っていうのは・・・あんまり自分ではわからない部分ですね。全て嫌いでそれに反論したいとかそういうのとは違って、自分の世界観で抱きしめてしまうみたいな。論破するとかそういう感じよりは。

ーー論破や否定じゃないんだよね。

冷水:はい。むしろ別のところへ持っていってしまうっていうか、うまく言えないんですけど。抱きしめるって表現はいいですね。なんかぴったりな気がする。

ーーぽいよね。そんな感じがするもん。

冷水:でその結果何かが芽吹くっていう。


世界観


ーーポストアポカリプス(※終末後の世界)について、ご自身の死生観に繋がってたりするんですか。

冷水:それは、後からついてきたもので。最初は、自分でもわかんないけどすごく心捉えられる風景みたいなものに、なんでしょうか。

ーー風景が最初、なんですね。

冷水:はい。風景っていうのかイメージというかこう、何ていうんですかね。実際見たことある風景、ではないけれど、もしかしたらそういうものの重なり合いかもしれない・・・けどもけっこうそういう身体性を持って迫ってくるものってあるじゃないですか。

ーー???

冷水:これはひとつのターニングポイントなんですけど、高校時代に遊んで作ってたときに、景色とすごく音楽が結びついて。


ーーこの空気感というか、目に見えない空間を揺り動かす感じは、なかなか言葉にできない領域だと思うんだけど、どうやって手繰り寄せているんですか?

冷水:それが、すごい自分の中にこう、論理的じゃない、根拠のない確信みたいなものとしてあって。でも最初からそれがあったからこういう音楽作ろうっていう直線的なことじゃなくて、点みたいに散ってたものがあとから繋がったような感覚なんですよね。

ーー根拠のない確信、で手を動かした先に後から繋がってくる。

冷水:それでさっき聞かれた死生観とか人生のこととどう繋がるかっていうと、私プロテスタントのクリスチャンなんですね。で、個人的に信仰とか理念と音楽を繋げるっていうことがすごく嫌いで、受け付けないんですよ。なぜかと言うと、題材化した瞬間にそれってすごく表面的なものになるなって思ってて。

ーーうんうん、

冷水:もちろん全部が全部そうとは思わないんですけど、自分としては生理的にできないなっていうのがすごくあって。だからなるべく関わらせないように意識してたんですよ。

でも具体的に何が変わったかというと、キリスト教の聖書自体の捉え方とか世界観も変わったっていうことなんですけど、物語神学って言って聖書を一つのナラティヴとして捉えようという神学があって。一言で言ってしまえばその聖書の物語の結論は希望で。

芸術の役割っていうのは、そもそも芸術に役割っていう言葉が合うかどうか置いといてちょっと便宜的に使いますけど、芸術のひとつの使命は今の世界の傷とか痛みを描写することと、そして今まだ見ていない最終的にもたらされる希望、新天新地のようなものを両方見ることだという考え方があるんですね。それは一人の神学者の主張なんですけど。

ーーなるほど。

冷水:現状この世界は傷んでるし、傷もある。っていうところと、でもその先にあの回復とか希望があるっていう、この両面を描き出すっていうような。

ーーああああ・・!そうなんですね・・・

冷水:っていうことが芸術のひとつの使命でもあるというような主張をしていて。これが、すごくまあ自分にとっては新鮮だったんですね。

そういう人間が滅んだような世界みたいなところででも自然が、木とか草とか生い茂って、それは自分にとっては美しい風景で。その風景と今言ったような神学的アイデアっていうのが去年ぐらいに結び付いたんですね。でこれはなぜかというと、さっき言ったようなヴィジョンというかイメージっていうのは、人間のその痕跡とか人が作ったようなものがこう時間が経って風化したり朽ちていくっていうようなところ・・・をそれが、なんていうのかなある意味での世界の傷というか。それをこう時間軸で言うと未来のものをこう今の・・現・・ああ・・こう・・透かして!見てるような感じがして・・ああの・・難しいな・・・

ーー透かして、見てる、

冷水:透かして見てるっていうのは、なんていうのかな、まあ今は勿論ねえ、建物とかも普通にあるけれども、でもそういう・・・

ーーあー・・!!うんうんうん、ああ、なんか時を超えてる感じですか?違う?

冷水:そうです、時は超え・・・ある意味では超えてるって言えるかもしれない。その、まあ今は普通だけどそれを、その、自分の見た風景みたいなのは多分時系列的には、こう、時間軸的には未来のものだけども、そのレンズを通して今の世界を見てるみたいな。

ーー!レンズを通して、

冷水:それがその世界の傷、ある意味では来たるべき希望みたいなものを複層的に描写するみたいなことと、すごく自分のその風景みたいなものが、こう芯の部分で重なるのを感じて。それがまさに世界に対する、世界観だったり人生観だったりとすごく通じてるんじゃないかなって今は思ってるんですよ。で、もしかしたらそれが、そういう崩壊したものを描くのにもかかわらず優しいとか、そういうものともしかしたら関わるんじゃないか。

ーーなんだろう愛を感じるんですよ。芽吹くことも、植物が生えてきたり、腐らせるのにも極ちいさな微生物の働きがあって、そういうのって全部こう、生きることに対する肯定というか。

冷水:ですね。まあ愛だったり、自分の中のイメージでは愛でるような感じというか。単にぶっ壊すっていうよりはそういう微生物がっていう、こう、朽ちていくっていうのはつまり、新たな何かが芽吹いてるってことじゃないですか、それはすごくほんとにそうだなっていうのは感覚的に思ってて。

ーー音が内に持っている指向の質にもそういうことを感じるというか。


個々のフェティシズム


冷水:でなんか、なんていうんですかね。時間を持続させないみたいな、時間をこう・・・切り刻む、ということを考えていて。時間構造の中でのこだわりではあるんですけど。

ーー持続を切断したり断絶したり、



冷水:はい。時間を切断することだったり、文脈を切断することっていうのは、ある種今の自分が違和感を持っている、音楽の聴取とか捉え方に対するアンチテーゼだと思うんですね。でもやっぱりその、そういう思想的な部分以前に性癖だと思うんですよ、正直。

ーー刺さる、っていうか、そういう個々人にそれぞれあるものっていうか。

冷水:ちょっと倒錯的な美しさというか。

ーー音を、音というか音の持続を切ること、が?

冷水:はい。

ーーそれはやっぱり音なの?

冷水:音じゃなくても。っていう部分はあるんですけどちょっとそういう一種倒錯的な、こう、美みたいなものって多分突き詰めるともう、なんかいくら思想的にそういうこと考えていても、身体の中になかったらできないというか限界があると思ってて。それは、だから極端な言葉を使えば性癖だと思うんですね。

ーーそうだよね。

冷水:はい。そういう自分のフェチというかフェチ的には・・・トミカとかプラレールってあるじゃないですか。ああいうジオラマ的なものってのはすごく大好きで、子供の頃からめっちゃ遊んでいたんですけど。例えば車を走らせて遊んだりとか、人がいたりっていうことを楽しめる人っていると思うんですけど、そうじゃなくて、建物とか信号機とか木とかを建てて・・・それをこう、角度から、眺めて、ああその重なり方とかがいい!みたいな楽しみ方が、自分の中ではそういうジオラマ的なものの楽しみ方の一つで、これがちょっと近いかもしれないです。

ーーそうなんだ!重なり方を。

冷水:建物とかが重なってるその、風景みたいなものを楽しむみたいな。

ーーへええ!

冷水:だからそれは、瞬間ではないにしてもこう・・・「ワンシーン」て感じかな。映像的にはワンシーンみたいなものに対するフェティシズム。

ーーはあああなるほどね。じゃあ人と聴き方が、まあ・・・人って言ってもいろんな人いるけど、だから、聴き方のマジョリティみたいなものと、全然違う角度から音楽を見ているのかもしれないのかな。

冷水:そうですね、他の人の聴き方になったことがないんでわかんないと思うんですけど、でももしかしたらそういうところはあるかもしれないです。ただ、やっぱり勿論今おっしゃったようにそれって一人一人の聴き方って絶対あるじゃないですか。

ーーあるあるある。

冷水:でもそれがそういう最大公約数的に聴かれることに、やっぱり疑問があるんですね。

ーーそうだよねえ。うん。

冷水:逆になんかみんな同じような聴き方してんのかみたいな。



他者、というわからないもの


ーー以前ね、作曲をするプロセスが魚釣りみたいだって仰ってたじゃないですか。

冷水:はい。魚釣り。

ーーそう。私の場合は作曲はなんとなくこう洞窟を掘り進めていく感じがするんですけど、進めながらあ、こっちじゃなかったな、こっちに面白いのあったみたいに。感覚的なメタファーですけど。魚釣りっていうのは初めて聞いたなって。

冷水:掘り進めると共通してる点で言うと、その何か宝石なのか鉱物なのかわかんないですけど、何かに当たるまで掘らなければいけないじゃないですか。で方向変えたりっていうのと一緒で、魚釣りも釣れるまで糸をたらすというのが多分共通しているところではあると思う。

でも掘るにしても釣るにしてもその感覚って・・・わかんないですけど・・・なんか、あんまりそういう風にそういうわかんない感じで・・・そう要は一歩先の手とかルートがわかってなくて作曲してる人って、そんないっぱいいますかね?

ーーみんなどうやって作曲してんだろうね(笑)

冷水:(笑)それこそなんかそのアイデアがあって、その実現に向かって書き進めていくっていうやり方だったりすると、そういうことにはならないじゃないですか。ああ!こっちじゃなかったみたいな風には。

ーー確かにそうだよね。

冷水:(笑)そう思うんですけど。

ーーそうかあ。

冷水:でだって、ねぇ?掘り進めていって、こっちじゃなかったでもこっちでもなかった、とかってなったら・・・ってけっこうリスキーじゃないですか?

ーーめっちゃリスキー。やばい。そのときは。

冷水:釣りもやばいんですよ。釣れない日もあるし。

ーーそうだよねぇ。

冷水:魚が回ってこないと釣れないんで。天気にも左右されるし。だから、ある意味、リスクだなって。

ーーでもやってくと手数は増えていくよね。

冷水:そうですね。ああでもないこうでもない、

ーーそうそう、こうすればいいかもっていう経験的な何かが。

冷水:そういうある意味ではラビリンス的な創作って、自分は前はコンプレックスに思うところもあったけれども今となっては、まあ・・・今後どう考え方変わるかわからないけど今の時点では、そういうラビリンス的なことっていうのは、こう、創作の本質なんじゃないかなみたいな。それが結局かっこいい言葉でいうと作品ていうのが他者で、それとこう、なんだろ喧嘩してみたり、話してみたりとかするっていうのと、掘り進めてこっちかな、こっちじゃないかもっていうことだったり、魚釣り、糸たらしとくっていうのは通ずるんじゃないかなと。

ーーその、他者って考え方面白いよね。

冷水:それは作品を、自分の作品でありながらわからないものとして扱ってるというか。

ーーそうだね。

冷水:それって旅みたいなものだとも思っていて。例えば用事だったら、回り道っていうのはいらないものじゃないですか。でも旅だったら、遠回りとか回り道も全部包み込んでくれるっていう。むしろ、てか、そもそも遠回りっていうのとか回り道っていうようなニュアンスというか、そういう概念にならないじゃないですか。

ーー前、「目的」を持った音楽や社会に対するフラストレーションについても話してらしたじゃないですか、そこらへんに通じるのかな。

冷水:通じます。周り道をそれこそ許されにくくなってきてるって。こうやったらうまくいくっていうルートを見せるものが多いし。でそれがやっぱり正解でそれをなんていうのかな、合理的に、短期的にクリアするのがいいって。まあでもそれこそ資本主義的な活動のなれの果てだと思うんですけど。でも、やっぱり意識しないと自分の創作とか自分の生活もそれに飲み込まれるなっていう。

ーー意識しないとそうなんだよね。

冷水:だからこそちょっと立ち止まってっていうのが。むしろこれぐらい言って自分でもやるように考えないと、できない社会になってきてるんじゃないかなって。



私(わたくし)音楽


ーー作品は遺構が綻んでいく断面がやはり美しくて。錆びてゆく部分とかひとつひとつの綻びの細かな作り込みが好きです。音を聴くと一瞬。楽譜で解像度を細かくしてゆっくり辿るのも、こう、ディティールの手触りがそれぞれに感じられて興味深いと思いました。

冷水:「ノットファウンド」だとそうですね・・・残骸からフルート、クラリネットが出てきてそこに、ピアノ、ハープが重なってきて、鳥が重なってきて、どこからともなくこのセカンドヴァイオリンのピックでギターみたいなリフのGM7が重なってくる・・・自分的にキュンキュンするなあって思ってて。

ーー空気の操作というかほんとに質感なんだよね。その前の雨がざーって降ってきて、

冷水:はい、

ーー熱と湿度が圧倒的に広がってくる感じに聞こえるところとか。

冷水:はい。あとは曲の一番最後、散り方というか、崩れ方、

ーーうんうん。消失のグラデーションというか、香りみたいな。

冷水:でもやっぱり言葉にしていくと、じゃあそういう何か思想が出発点にあってそれを音楽上のアイデアとして実現するために譜面を書いたみたいな捉えられ方ってあるじゃないですか。それがすごく、なんか、ヤで。それは曲を書いてるうちに結びついた部分もあるし、勿論書く前からあった部分もある。別に、たとえ曲を書く前からそういうものがあったとしてもそれは、なにか作曲をするためにアイデアを収集してたとかじゃなくて、普段考えていることっていうのが身体にまとわりついているような感覚で。なのでそういう意味で、コンセプトにこだわるのっていうのがいまいちこう、感覚として、わからない。

ーー「芸術」が作品を「証明」しなきゃいけないじゃない、こういうものです、だから価値があるってことを。それに対する違和感みたいな感じなのかな。

冷水:いやそれもありますね。まさに。やっぱり、価値を証明・・・するっていうのはつまり、他者に説明して社会的な合意みたいなものをとりつけるっていうようなニュアンスもあると思ってて。それはでもやっぱり作る方にも、見たり聴く方にも、鑑賞も、そういう態度ってのは実際ありますよね。

ーーそうだね作る方もだし、鑑賞にもありますよね。ひとつの角度から見た競技というか。それはそれとして。

冷水:はい。だからそういう意味ではもう・・・思い切って私(わたくし)の方の私小説、私音楽って言っちゃってもいいなと思ってるんですよ。だから、別に誰がどう思おうが、私はこう思ってて、それは私にわかればいいみたいな部分ていうのは、勿論全部じゃないけれども、やっぱり正直あるなって。そういう意味では、自分の創作ってのはある意味私音楽的な部分は、あるなあって思います。

ーー現代音楽がスノビズム的な意味で、わからないならいいよみたいなそういう閉ざされた性質があったと思うんだけど、それとは全然違うよね。

冷水:そうですね。

ーーうん。全く違う。

冷水:むしろもっとこう、プライベートな感じですよね。スノビズム的な発想ってある意味パブリックなものだと思ってて。教養っていうのは歴史性とか、もっと言うと捏造された歴史性みたいなものに裏付けされたものだろうし。で、そういう言い方をしながら自分自身の作品とか自分のことは、例えば音楽史っていう歴史に位置付けるわけですよね。

むしろ、それよりはもっとこう、なんていうのかな・・・じゃあ内向的かっていうと内向的とはちょっと違うんですけどむしろこう、別のとこに開かれてるというか。私音楽的な姿勢っていうのは「世界」に開かれているというか。世界ってワールドワイドとかインターナショナルって意味ではなく文字通り世界、

ーー目の前の今この世界、に。

冷水:そう、この世界!とやっぱり触れ合ってる部分・・・じゃないのかな、っていう風に思います。


Hiyamizu - Not Found (2018-19) 音源はこちら等で聴くことができます[LINK]、楽譜は作曲家[LINK]までお問合せください。




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