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【宗教とスピリチュアルの違いとは】

私>ここにきて、宗教についての話題が多く語られるようになり、よく宗教とスピリチュアルが混同されることがあります。

だからこそ、私もきっちりこの違いを今ここで聞いてみたいと思いました。

宗教とスピリチュアルの違いについて教えてください!
(><)/

【宗教か?カルトか?スピリチュアルか?】

マスター意識>>さて、最近にわかに宗教について取り沙汰されているな。しかし、それは今に始まったことではないし、繰り返し人類は支配と統治について、そして今もなおその力を求めている。

とした時、やっとその人類の本能的な野蛮さについて話せるくらい「民度」が高まってきたとも言えるな。

先進国では、「カルト」という考え方でその思想の危険さに警鐘を鳴らし続けてきている。

しかし、今回起きたことは、反社会を「カルト」とすると、社会も社会のど真ん中の政治というものが、関わっていたという点だ。

つまり、「社会」が未来を担う国民を犠牲にして、自身たちの票集めをしていたとすれば、どちらが、反社会的な活動をしていたのか、疑問を感じざるを得ないな。

さて、カルトの思想(教義)の中にスピリチュアルともいえるような、超人的な秘儀や、儀式があげられる。

こうしたチャネリングも立派な秘儀かもしれないな(笑)

さて、その秘儀や、儀式を重んじて、嫌がる子供を無理やりその儀式に参列させようとすることが、もうカルトの入り口であろうな。

しかし、これは敬虔なクリスチャンであっても、その道をたどってきている。

ヨーロッパの敬虔なクリスチャンが、父親からベルトを鞭替わりにして、打たれて怒られていたという話もきく。

別にカルト(新興宗教)ではない。敬虔で伝統的なクリスチャンでだ。

さて、宗教とは何か、スピリチュアルとはなんなのであろうかのう。

【人類を統治する難しさ】

ここで理解して欲しいのは、「人類」を統率し、一定の規則を守らせ、文化を営むことがどれだけ大変なことなのか、ということをまず理解して欲しいのだよ。

そして、他人の権利を侵害する(犯罪)ことを止めさせることが、戒律(現代では法律に代わっているが)だとすると、それは当然正しいこととなる。

しかし、それがいつのまにか、「この場所」(宗教)の「利益」を「侵害する者」に対して、戒律を用いてしまうようになり、またそうなってしまう危うさもある。

(法律であっても、弱者を守るのではなく、強者が巧みに法律を操り、弱者を食い物にすることもある。そうしたことを、人類はしてしまう「生きもの」だと認識して欲しい)

それを守らなければ、子供であっても許されないし、むしろ子供だからこそ許されない。

さて、では人類が戒律などなく、縛られるものもなく、本当に自由になった時、人の権利を脅かさず、人を傷つけることなく、幼さという野蛮さを乗り越えて、成熟していくには、何も規制がなくていいのか?といわれれば、それも違う。

一定の教育は必要であり、人によっては厳しさも時には必要だ。

その一定の領域をどのように線を引くのかは、今もなお答えのでない(一般的な教育論も含め)難問である。

さて、この問題にどう取り組み、人類はどのように先へと進めばいいのであろうかのう。

ああ、そしてスピリチュアルとの違いであったな。

では、これから「宗教」と「スピリチュアル」の大きな違いを話していこう。

【宗教とスピリチュアルの違いとは】

結論から言うと、この2つの大きな違いは、指導者が外にあるか内にあるかという点だ。

宗教は絶対的な指導者は外の存在であるということだな。

しかし、スピリチュアル指導者は内にあり、それは本人が担っている

それが「直感」になるのであろう。

さて、では「私」(マスター)という存在はどうなるのであろうか?

もし、人が私の話を聞いて、私が指示を出し、それを逐一聞くのならば、宗教になるであろうな。

しかし、私は必ずそなた達自身に選択を与える。

それを選ぶのはそなたたち自身でしかないからだ。

なぜなら、繰り返し言っているが、人類に与えられた唯一の自由は「選択」の自由だからだ。

(少し解説しておくが、人類は様々な「宿命」の中に身を置いて生まれてくる。
両親、国、土地、性別、貧富、教育、コミュニティ…など、自分で選択できないものが数多く存在する。
それを「宿命」という。
しかし、宿命の中にいても、「こちら」と「あちら」など選べるものも出てくる。
それを選択していくことが、自分の「運命」となる。
そして、「宿命」という選べないものさえも、それを乗り越えることで、性別さえも変えることも可能になっている。
私がいつも「よりよい選択を」というのは、そうしたことからだ。
人類であろうとして欲しいからな)

さて、その選択の自由を奪われているとしたら、その人間は「人類」ではない。

それは(鮮烈な表現を使うが)「家畜」になってしまうであろうな。

「誰かに管理されている動物」ということだ。

であるから、自由を奪われ続けた人間は精神を病んでしまうのだよ。

「人類」として生きることを奪われ続けると、人は生きることをあきらめてしまうからな。

そして、それは何も「宗教」の中にしか存在しないのではなく、社会の中でもそうしたことは蔓延している。

さて、人類が人類としての生きる「権利」を再び手にしていくにはどうしたらいいのであろうかのう。

【人類が人類であるために】

今、やっと宗教においての「選択権」を自分の手に戻そうとしている人たちが出ている。

そうして声を上げる人間が出て初めて、そうした状況にさらされていた人間も、自分の立場は偏ったものであり、選択することを求めていいのだと後から気づける。

それは、女性の権利や女性の虐げられた立場へのNO!が、運動として行われてきたことは周知であろうし、LGBTへの理解を深めることや、やっと宗教2世も弱者であることに社会も気づいたということであろう。

いつでも、その立場に置かれている者しか声を上げられないし、そこいる者は声を上げることがとても大事になってくる。

それは、人類が人類であろうとしているのだよ。

【選択を放棄しないことが人類の証】

であるから、そなた達も選択を放棄してはいけない。

必ず、自分で選ぶのだよ。

自分で選択することで、道を切り開いていける。

そして、道を切り開いた者しか、「自由」を得ることはできない。

もし、選択権を誰かに与えてしまえば、(それは、夫へ、妻へ、はたまた子供へ、上司へ、社会へ…など)そなたたちが人類として自由に快活に生きる道を「放棄した」こととなる。

今までは、選択できない不自由で不遇な時代が続いた。

20世紀は戦争ばかりしていたからな。

しかし、もう人生を自由に選べる下地は整ってきている。

差別や偏見もだいぶ薄らいできている。

あとは、自分の固定概念にとらわれることなく、そこをみずから解放してあげるかどうかだ。

誰かが阻んでいる…ということは、幻想になりつつある。

【自分を阻むのは、自分だけ】

他人は、誰もそなたたちを阻むことはできない。

もし、阻むことができる人間がいるとしたら、それは…。

自分自身のみであろう。

すべては、そなたたちがクリエイトして、自分で引き寄せている。

それは、事象も人間関係も、そのすべてなのだよ。

だからこそ、自分がどのようにして自由を手にしていき、どのように謳歌していくのか?が、自分が自分自身に課した壮大なミッションなのだよ。

阻んでくる他人がいるように見えるもの、それは自分が自分に課した敵キャラだ。

バーチャルなのだよ。

そうだと気づけて、「さて、私はこのミッションをどう乗り越える?」と自分に問える人間たちが、これからはこの不毛に見える難問の出口を見つけることとなる。

【これからの宗教に代わるもの】

宗教という聖域でさえも、聖域でない時代がやってきた。

宗教の長きに渡ったターンが、折り返されようとしている。

では、宗教に代わるものは何なのか?

なぜ、今折り返しのターンにきているのであろうか?

それは、人類同士が傷つけ合いながらも、しっかりと「愛」を学び続けた先人たちが、その想いを子孫に伝え、子孫がそれを受け継ぎ、こうしてしっかり文化を築くことができている。

悲観ばかりではない。

誰かが上げたその声を、しっかり受け止める人間たちが増えている。

もう、無視しなくていい。

もう、諦めなくていい。

痛みを苦しみを声にするだけで、それらはこの世での使命を終え、宇宙の元あるべきところへと還ることができる。

大事なのは、ただ声にすることなのだよ。

それで、すべては完結する。

だから感じる事、そして感じたことを話すことが大事になる。

話すは、離すだからな。

だから、カウンセリングというものが、これからもっと、もっと、大事な役割を担ってくるのだよ。

精神がもう迷わないように、今、自分が感じ、そして感じたことを口にしていきなさい。

そして、これからの宗教に代わるものとは、一体何なのであろうか?

それは、「神は外にはいない」ということを知ってもいい、その真実に触れてもいい時代がやっときたのだよ。

神は外にはいないとしても、人類も異論を唱えない時代がやっときつつあるのだよ。

神はそなたたちの「心の内」にしか存在しえない。

だから、自分で選択するのだよ。

それには、自分の感情を感じ、自分に問い、自分で答えを出していい。

そう、私たちは伝えている。

そして、それを人は「直感」と呼ぶのかもしれない。

これからの宗教に代わるものとは、「自分自身」なのかもしれないな。

【様々な神々たちの恩恵を受けてこそ豊かである】

しかし、突然そう言われ、右も左も分からないのに、自分で決めろと言われても、難しいであろう。

その時は、数々の神々たちが時代を超えて、そなたたちが選択しやすいように、人類を温かな目で、そして長い目でじっと見つめ続けている。

時に頼ることはいい。

その愛を必ず神々たちは惜しむことなく、人類に捧げ続けるであろう。

商売繁盛には、この神様。

縁結びには、この神様。

人類愛はこの神様だし、知恵はこの神様、そしてつつがない日々の感謝はこの神様へ…。

という具合に、使い分けていいのだよ。

たくさんの神々が存在してくれているのは、豊かなことではないかね?

そうであれば、地球はなんと豊かな星であろうかのう。

キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、神道…などなど、なんとバラエティーに富んだ神々がいるのであろうか。

いろいろな神に頼れることこそが、豊かである証拠だぞ。

であるから、神はたくさんいていいし、たくさんの信じるものがその人間の中にあってもいいのだよ。

そして、忘れてはならないのは、最後は自分で選択することだ。

感情を感じ、人と話すことをし続けるのだよ。

そして、様々な神の助けを得て(いわゆる神とはそのような補佐的な存在なのだよ)「自分」という「崇高な存在」が選択したことを、自分がきちんと行動できた時、そなたたちの道はおのずと開けてくるからな。

いいかね、分かったかね。

これからも「スピリチュアル・カウンセラー」の地位向上と、良質なカウンセラー育成のためにまい進していきたい思います!是非、ご賛同していただけると嬉しいです♪