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4月4日「深夜ラジオ」

なんだかいろんなことを話して、自分の中の言葉のストックをほとんど出し切ってしまったような一日だった。
目的の言葉をめがけて辞書を引いても、閲覧した後に辞書の中から言葉が失われることはないけれど、自分の頭の中にある言葉は、少しずつ減っていくような感覚があった。
本当にそんな現象があるなら、フリースタイルラップは自殺行為でしかなくなる。きっとそんな現象はない。主張が減っていったことの錯覚だろう。

深夜ラジオを担当しているお笑い芸人が、ラジオの仕事がなくなるのは辛い、と言っているのをよく聴く。テレビでは言えないことや、テレビでのストレス、社会での生活について、ほぼ見境なく喋ることのできる場所だから、というか、言葉の形にできる時間だからなのだろう。自分の思うことを話せる場所。
この日の僕は、深夜ラジオだった。
気を完全に許した友人に対して、思っていることをたくさん話した。

彼は先輩から好かれやすいタイプだった。お酒の場に誘われたり、大人の店に連れて行かれたり、何かと面倒を見てもらっているようだった。僕は後輩からは好かれやすいが、先輩にはあまり好かれなかった。
僕は、後輩たちが自分に対して敬意を払いすぎるのが苦手だった。軽いノリで、ポップに、半分ナメているくらいの態度でいてくれた方が心地よかった。
それを聞いた友人に「それを先輩に望んでるんじゃない?」と言われた。lucky strikeの煙を吐きながら言っていた。
その通りだった。つまり僕は無意識に先輩をナメていて、ノリが軽くて、嫌な奴の可能性が高かった。

そんなことをうだうだと話しながら公園を歩いていたら、前の方から原付が走ってきた。法律的にアウトだろ、と言いながら、これは日記に書くだろうなと口にした。そして今こうして文字に起こした。

公園の雪はだいぶ溶け出していて、ここ二日の春模様のおかげだった。
札幌の春は本州に比べて遅い。上京した友達から送られてくる桜の写真に羨ましいと心で嘆き、現実では排気ガスを含んだ汚れた雪を見た。
急に上がった気温のせいで、冬物のコート着てきてしまった。札幌の春はある日を境に急に暑くなる。力加減を分かっていない幼児のようで、春を愛でたくなった。いい子、いい子。

公園沿いにある手軽なカフェでアイスコーヒーを買った。手軽なカフェは、手軽なのでたまに行く。カフェ巡りが好きなのだけれど、どんなカフェでも何度行っても、扉を開けるのは緊張する。なんでだろう。
そのカフェは緊張しない数少ないカフェだった。目標地点にしている人が少なくて、経由地点にされがちだからだろうか。近くに来たし行こう、という使われ方が多い印象だった。
あるいは、僕の使い方がそうなのかもしれない。エチオピアのアイコはさっぱりとしていて、春らしい味がした。

店の前の椅子に腰掛けて下世話な話をした後、別の場所でまたコーヒーを飲んだ。冬季期間は休業している場所なので、久しぶりだった。ザクザクのシュークリームを食べた。シュークリームの甲羅は硬いほうが好きだ。
友人の仕事について話し、東京への憧れというか、印象というか、イメージの東京を作り上げていった。イメージの東京は素晴らしい場所だった。多分、住んでみたら乖離がひどいのだろう。想像の中では物事はすべて素晴らしいものになりうる。

さらに場所を移動してお酒を飲んだ。古臭い居酒屋、店員のお母さん達の接客が素晴らしかった。頼もうともしていないあんかけ厚揚げを、口車に乗せられて注文してしまった。その店で一番美味しかった。
お手洗いに行こうと席を立った時、隣にいた女性四人グループのうちの一人がデカッと声を漏らした。明らかに僕の身長の話だった。
気分の上下は特にないが、率直にものを言える姿勢が素敵だなと思った。脳を介していない、口をついた物言いが、お酒の場にいるという感覚を煽ってくれる気がした。

友人とはその中でTwitterの害悪の部分、恋愛、何かを書くということ、浮気について、まあ要するにいろんなことを話した。
一つひとつの話題を掘り下げて話のできる友人は大切だと思った。
何かを話すとき、話したいことを言葉にできない人はけっこう多い。言葉が増えれば画素数が上がるが、それができなければ解像度が低いまま。それに、ハナから深くまで考えたいと思わない人もいる。
だからこそ、深くまで掘り下げた上で言語化もできて、その隙間にふっと空気の緩くなる会話もできる人は貴重だった。興が乗って、僕の主張もたくさんしてしまった。

そして言葉が事切れていった。
一日かけた深夜ラジオだった。

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