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4月21日「ガリガリくん」

休日となると怠惰に身をかまけてしまいがちだから、できる限りの充実を掴み取るため、家を出て歩き始めた。夏のふりをしている太陽の陽射しが思ったよりも強く照りつけて、無駄に着込んだシャツが身体にぺたぺたと張り付いた。
あまり気分のいいものではなかった。
心地の良い場所を求めて街へと向かった。
地下鉄を降りて街を歩いていると、自転車に乗りながらガリガリくんのソーダ味を食べている高校生とすれ違った。昔の自分を見ているような感覚がした。

なんでもない日でも、60円のアイスをかじれば全て満足するような毎日だった学生時代を思い出した。いまじゃ2500円の飲み会が楽しくないことだってある。大人になりすぎてしまったのかもしれない。かといって子供のままでいたいというわけでもないからややこしい。
成長するというのは、楽しみを投げ打つこととイコールではないと思うのだけれど、素朴で小さな楽しさを見出すのが難しくなってきたのは、認めたくはないが事実だろうと思った。

毎日いろんなことを考えてしまうからだろうか。
夜にどうでもいいバラエティを流している時には、頭の片隅で明日の出勤時にやらなければならないことを思索していたり、公園のベンチでなんとなくぼんやりしている時にも、仕事で忙しなく動くサラリーマンを見つけて、焦燥感に駆られたりする。
自分で自分を急かしてしまって、いちいち楽しいにかまけている暇がないと思っているのなら、もう少し幼稚な頭を持った方が幸せだろうと思った。

あるいは刺激に慣れてしまったのかもしれない。
高校生が食べてきたガリガリくんの本数よりも、僕の胃に落ちたガリガリくんのほうが多いのは明確だ。食べる数が多ければそれだけガリガリくんが当たり前のものになっていく。だから、高校生のガリガリくん的喜びが、十年分、のっぺりと薄まってしまった可能性はある。
ガリガリくん的喜びとは、ヤマザキの安いパンとか、世界のキッチンのソルティーライチとか、映画や本や音楽に触れることだ。供給される娯楽はサブスクやスマホの普及で増えたのに、新鮮なものは減ってしまったようだった。
年齢を重ねるのは残酷だ。
いや、でも、ほんとに?
いいこともたくさんあるんじゃない?

なんて考えつつ、じんわりと汗をかいてきたところで喫茶店に辿り着いた。古びれたビルの六階にある喫茶店は、会話が厳禁な訳でもないのに物静かだった。椅子を引く音さえ気を使った。
アイスコーヒーとどら焼きを注文して、鞄から夏目漱石の『明暗』を取り出した。物語も佳境に近づいていた。
半分を越えたあたりから突然ストーリーが入ってくるようになった。それまでは動き回る人たちの群像劇を描いている文章を楽しむ方向性でいたのだけれど、物語が動き出したというか、細々とした話の積み重ねで手触りが出てきたというか、ともかく異様に面白くなってきた。350ページをかけたプロローグを抜けたのかもしれなかった。

しっとりとした文を目で追いかけつつ、汗のかいたグラスの水を一口飲んでいたら注文したものが卓に並んだ。
アイスコーヒーは深煎りで思ったよりも濃かったから、舌の上にしばらく残った。後味が残っている内にどら焼きを一口頬張ると、優しい甘味がして、いいものだった。珈琲風味の餡が美味しい。何度も来ているお店だけれど、どら焼きを食べたのは初めてだった。これからは注文することに決めた。

落ち着いた音楽、衣ずれの音と氷がからんとぶつかる音、店員さんの作業音に包まれながら本をぺらぺらと読み進めていたら、友人からLINEが入った。
この人のインスタ知ってる? という内容だった。台湾人がカフェを巡って、店内の間取り図やら注文したものを描いているアカウントだった。ボールペン画というやつだ。「シルバーのケトル」みたいに色味は言葉で添えてあるし、豆のグラム数や抽出方法についてもやりすぎなほど詳しく書いてあった。パラノイア的だなと思った。

友人は大学時代に建築学部に通っていた上にカフェ巡りを趣味にしていたから、このアカウントが好きにぴたりとハマったのだろう。
彼の大学時代のノートは同じようなもので埋まっていた。存在しないカフェの間取りが事細かに書いてあって、自分の理想のお店を作り上げていた。どれもが焦茶の木目調だったように思う。
かといって彼は自分の喫茶店を持ちたいわけではなくて、行きたい理想のお店を描いていた。六年ほど経った今、そんなお店に出会えたのか気になった。
しばらく連絡を取り合い、新しい自転車を買ったから今年はたくさん移動したいと聞いた。遠くまで走らせてカフェに行くらしい。まだ、理想のカフェには出会えていないのかも知れなかった。

夜ご飯の買い出しもあるので少し早いが店を出ることにした。お会計は970円、それ相応の喜びはあったように思えた。

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