見出し画像

プラトン『饗宴』要約と感想

以前書いたプラトンの『饗宴』の要約と感想を修正せずに、載せようと思います。『饗宴』を最初に読んだのは、コロナ前の2018年でしたが要約を書いたのは2020年。コロナが長引きそうでアフターコロナへの不安を感じているなか書きました。
コロナになって思ったのが、メディアとSNSの強大な力。各人が日常的に触れる情報の影響力です。コロナが収束しそうな2022年でさえ、コロナからの直接の影響よりも情報の影響の方が根強く残る気がします。
それは目の前で体験を語る実際の人々よりも、誰が書いたか分からない情報を信じさせる力です。情報が個人、そして社会に影響を与え多くの人の人生を左右していくのだと感じています。

では、本編です。読んでいただけたら嬉しいです。

饗宴(中澤務訳)あらすじ  プラトン著

 本書は、紀元前約380年アテネの哲学者プラトンによって執筆された、エロスにまつわる哲学書です。ソクラテスは、古代ギリシャの哲学者で、釈迦、キリスト、孔子とならぶ聖人とよばれています。
 舞台は、アテネにある悲劇詩人アガトン邸。そこで開かれた饗宴で、ソクラテスを含む有識者6名が、神エロスを褒め称える演説会を始めます。二十代から五十代の哲学者、医師、詩人、弁論家らが順番に演説を披露し、最後にソクラテスがエロスについて語るというストーリーです。
 本書の中心は、もちろんソクラテスの演説です。しかしその内容は、他の有識者のようにエロスの美を賛美するものではありませんでした。
 彼は、以前知り合った巫女ディオティマについて話を始めます。
 ソクラテスは、ディオティマから、エロスの真の姿を教えてもらったといいます。
「真の姿を知れば、エロスが人間にどのようなふるまいをするか、自ずと分かる。エロスを讃えるのは、それが分かってからだ」と、彼はエロスの正体について、話し始めます。
 ディオティマによると、真のエロスとは、美しくない容姿をもち、永遠に美を求める精霊、ということになります。
 彼女は「人々はエロスは美しい容姿をもち、愛の神だと慕っているが、エロスが美を求める者であると信じるならば、その正体を突きつめれば、彼が精霊であることが自明である」と、主張したのです。
 なぜなら、美くしい者は美を求めることはしないからです。神は美を求めません。神は美しいからです。したがって、エロスは美しくない容姿をもつ精霊だと彼女はいうのです。
 精霊は、神と人間のあいだをつなぐ存在です。精霊は、人間のふるまいを神に近いものへと導きます。つまり、エロスは人間を美に導く存在だとディオティマは語ります。
 それでは、エロスはどのような美に、人間を導くのでしょうか。
 ディオティマが語る神話によれば、それは人間が美を生み出したとき、すなわち知恵を生み出したときだというのです。
 彼女の話は次のとおりです。
 すべての人は子を宿しています。(当時は、卵子だけでなく精子も、生命のひとつと見なされていました)。そして死から逃れられない人間は、永遠を求めています。
 体の中に子を宿している者は、人間の子をつくります。彼らは子どもを通して、不死や自身の記憶、幸福を未来永劫につなぐと信じています。
 これにたいして、心に子を宿している者は、知恵を持つ人です。彼らも美しいものを求めてさまよい歩きます。なぜなら人間は醜さのなかで、子を生むことはできないからです。そして、美しい人と出会い、相手を手に入れて一緒に過ごすと、彼は長く宿してきた子、すなわち知恵をなして生むのです。
 彼は一緒にいるときも離れているときも、その人を忘れることがありません。そして生み出されたものを、その人と一緒に、もしくはその人を思い出しながら育てます。 
 こうして人間は、子どもや知恵を通して永遠を創造します。
 エロスが微笑むのは、人間の子ではなく、知恵が生まれたときです。なぜなら、人間の子よりも知恵の方が美しく永遠だからです。より多くの人に、善きものをもたらすから美しいのです。
 以上、ディオティマの神話に、ソクラテスは深くうなずき、饗宴でソクラテスの演説を聞いた有識者たちも、それこそエロスの真の姿だと、賛同しました。

『饗宴』において、最も重要な点のひとつに、ディオティマの存在があります。懐妊や出産に例えて、知恵について語る人物は男性より女性が適しています。
 神の使いである巫女は、エロスがもつ神秘的イメージを語るのにふさわしい人物です。ソクラテスがディオティマの神話をすんなり受け入れた重要な要素であったでしょう。そして女性である彼女が、人間よりも知恵を尊ぶ主張も、男性であるソクラテスを納得させた重要な点ではないでしょうか。
 知恵もまた人間の子と同様に、人間の出会いから始まり、結合し生まれ、愛や美のなかで育まれるというストーリーは、饗宴に参加した有識者たち、すなわち同性愛者たちの心を掴みました。
 ソクラテスが生きた時代は、少年愛という性風習がありました。年長者が少年にたいし、肉体の愛を求める見返りに、少年に教育をほどこす風習です。
 人間の子を生むことができない二人であっても、知恵をつくることはできます。生命体がもつ有機体の絶対的存在感が知恵になくても、知恵は、広く永久に、人々に善いものをもたらします。知恵をはじめとするさまざまな徳に、それは可能なのだとディオティマは、男性たちを勇気づけたのです。
 知恵が他者との営みのなかで生まれるならば、それは愛の結晶に違いありません。だとしたら、その知恵が昇華するよう導く者は、愛エロスしかいない。そう、二千四百年前に生きたソクラテスは信じたのです。
 現代に生きる私たちには、知恵は男性たちだけのものではないと分かっています。しかし性別など関係なく、彼の哲学がどこか遠く、さらに眩しく映ります。時代が進むにつれ、他者、ましては他者の肉体はどんどんと遠いものになってきました。実態が分からない相手のイメージと対峙することの方が、現代人は慣れています。コロナが終息しても、この現象はさらに加速していくかもしれません。他者の肉体は手を伸ばしても届かない、贅沢なものになり、知恵は孤独のなかで生まれることが多くなるでしょう。孤独のなかで生まれる知恵は、さらに孤独をもたらす知恵かもしれません。
「その知恵はいったい、愛をもたらすものなのだろうか」という問いが、どの知恵を受け入れるかどうか、人間が判断するひとつの指針となるかもしれません。