子どもの「居場所」について考える
この春、小6になった息子。
学校が合わず、自宅で過ごすようになり 4年弱。
はじめは心身の回復に1年半ほど費やし、
次第に元気になると、このまま家にずっと居て大丈夫か?と不安が湧く私(母)。
学校以外の「居場所」を探したが、当の本人は見学や体験すら(仮に行けたとしても)興味・関心がない。
子どものための「居場所」、
不登校の子のための「居場所」、
オンラインの「居場所」、
幸いにも周囲に選択肢はあったけれど、なびかない息子。涙
どうしたらよいか?この先の心配・不安がついてまわる。不登校支援に長く関わる人たちの話を、次々と浴びるように聞いた。
そこで、子どもは支援臭さを敏感に感じる(それもネガティブな方に捉える)らしい、とも聞いた。
息子も、そんな拒否反応なのか、ただ 子ども(同年代)の集まりがしんどいのか。分からないけど。
こんな言葉も耳に入った。初めて聞いたときは、どういうことか?飲み込めないまま……頭を殴られたような衝撃だった。
(時間を置き、冷静に振り返ると思い当たる節はある)
不毛なまわり道はさせたくないな。
それからは、子どもにその気がないうちは外に居場所を求めることはやめよう、と決めた。
(同時に……情報収集は継続しつつ。息子に情報を出す・出さないはタイミングを見て。NOが言いあえる関係性づくりに重点を置いて過ごした。)
そうしてこの2年ほど過ごしてみて、気づいたことがある。
「居場所」と「場所」は【≠】かも??ということ。場所さえあれば居場所になる、そんな安直なことでは きっとないんだろうな、と。
「人」との繋がりから
ホッとできる瞬間、
ここに居ていい・自分のままでいいと感じられる瞬間、
それが体感できたら、それこそが「居場所」になるのでは?と。
「場所」の前に「人」。↑ を体感できる人の居るところに、居場所を感じるんじゃないかなぁ。
そう思ったら 一気に、心が緩んだ。
息子の居場所は、もう既にあって広がりはじめている。いろんな人達のおかげ、感謝も湧いた。
例を挙げると、
などなど……
かつての私は、どこかに属したり、通ったりすることが「居場所」と思って。一生懸命あうところを探していたんだけど。
「居場所」を広く捉えてみたら、たくさんの人の中ですくすく育つ息子が浮かび上がってきた。そんな感覚がしている。
なにより、家が第一の居場所として在る、そこは大切に作ってきた、ということも忘れがちだけど事実。
……と、こんなnoteの下書きを書いていたら
息子が突然「今度 (妹の通う) フリースクール、行ってみようかな!」と言い出し、さっそく体験に出かけてきた。
そして、また次も行ってみようかな!と思っているらしい。
息子にとっての居場所が、これからどんな風に広がったり、深まったり、うつろいで行くのか?どんな出会いが待っているのか?楽しみだなぁと思う。
おわりに、先日 出会った詩をひとつ。
書いたこととも繋がっているような気がして。
こんな風に 子どもと育ち合いたいなぁってことが詰まっていたので、載せておきます。
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