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友人の部屋

同僚の彼とは、何となく趣味が合う。仕事の合間によくしゃべったり、居酒屋でくだらない色恋の話をしたりする仲だ。

当初から、「普通の」仲良しだと認識していたが、しかし同時に私は彼と会話するたびに、或る<拒否反応>を自分のうちに感じていた。もしくは、彼のうちに<異物混入>を疑っていた、と格好つけた言い方も許されるか。

(私はここでサルトルの<吐き気>という表現に引っ張られたことを白状する。)


拒否反応1:彼は、いかにも若者が気取って手に取りそうな、たいした値段のしないブランド物を纏っていた。

拒否反応2:彼は、中途半端に「学ぶこと」に興味を示した。高校での世界史の授業に感動してしまうタイプである。そういう奴に限って、結局就活をして金を稼ぐ。

拒否反応3:彼はよく嘘をついた。

拒否反応4…


拒否反応n:彼の部屋は、無駄に整っていた。彼曰く、複数の女をこの部屋に連れ込んでいるらしいが、そんな形跡もなく、きれいにしてある。物も多くない。飯はたいてい外食だし、そもそも家で何かをすることも少ないから、一人暮らしの男の部屋とはそんなものだろうか。

趣味の悪い置物に目が留まる。大学時代の友達とヨーロッパ旅行に行った時の土産らしい。

使われないバターナイフ。読まれず整然とした本たち。すなわち、徹底的に意味のない装いと潔癖。


会社から近いため、飲み過ぎた日は彼の部屋を利用させてもらっていた。感謝すると同時に、この場所に、私の拒否する「それ」が隠されているのではないだろうかという疑りもまた生まれていた。


土曜の朝、私は彼の部屋で、比較的気持ちの良い日差しをカーテンの隙間から浴びて目を覚ました。昨晩、例のごとく飲み過ぎた我々は、彼の部屋で週末を迎えることにしていた。今日は仕事は無い。

彼がコーヒーを淹れてくれるらしいので、それまでのあいだ私は、まだ見飽きてはいないこの部屋をほっつき歩いた。

断らずに寝室に入り、ぼーっと見回していると*、何やらカサカサと音がしているらしい。音の出所に注意してそれを探してみると、腰より少し低いくらいの大きさのこじゃれた収納ボックスの下の引き出しである。私は音の出処が「それ」ではないかと勘繰ったので、重たい唾液を飲み込んで、その引き出しを開けた。虫かごが入っている。ああ、「それ」である…。


何かにがっかりした気がしながら、そいつを右手で取り出す。中にはカマキリが100匹ほど押し込まれていた。間違いない、彼はカマキリを共食いさせるという趣味を持っている。そして、その趣味を隠すために、いや、その趣味の遂行の延長として、彼の通常生活がある。彼の一切の行いは、この趣味から始まり、この趣味に帰結する。

<拒否反応>の正体をあばきだした私は、眩暈に抗いながら、足で思い切り引き出しを閉め、リビングに割としっかりとした足取りで向かった。昨日もカラオケで歌っていた流行曲を口ずさみながらコーヒーを淹れている彼に向って、私は「やっぱりじゃないか!」と叫んだ。「お前もか!すべてはこの趣味のためだったのか、このクソ野郎!」

彼は狼狽えた。そして、何を言っているんだという困惑と悲しみに満ちた顔をした。

私は彼をキッチンの角に追い詰める。「とぼけるな。あの虫かごだよ!収納ボックスの一番下の段の…!」

彼の表情には、クエスチョン・マークが2つ3つと増えていった。「ん?下の引き出しに入っているのは、アクセサリー入れだよ?」話が噛み合わないので、私は彼を寝室に連れていき、その引き出しを開けた。言い訳のしようがないはずだ。

「アクセサリー入れじゃん。時計とかネックレスとか入れてんだよ。あ、この財布は元・元カノにもらったやつ。」

困惑と悲しみは私の側にやってきた。彼は本気で言っているらしい。カマキリがうごめくこの虫かごが見えていないのだ。おそらく構図はこうだろう。すなわち、彼の生活は全てこの共食い観察趣味に端を発しているが、彼にとってはそれがあまりにも当然であるため、日常のほうが虫かごに反射している。彼はこうして、自分のなかにある「それ」の正体を理解できなくなった。彼の認識は到底そこまでたどり着かないのである。


そう言って何事もなかったかのようにリビングに戻る彼の後ろを、私は何事もなかったかのようについていくしかなかった。そして、この世の無数の諦めの集合にまた一つ諦めを追加したところで、明日からの私の生活には何も変わりがないことを理解し、一定の満足を得た。

今日のコーヒーは不味くない。ふた口めをすすり、もう一度虫かごのことを考えてみる。あの暗い引き出しの中で、カマキリたちはどうしてあんなに活発でいられるのだろうか。共食いで数の減った虫かごの補充は、いつ行っているのだろうか。私はもう気付いている。これは、単なる興味ではない。具体的な方法への関心である。コーヒーを飲み終わったころには、あの虫かごを愛している。

誰にも気づかれることなく寝室に入る。再び虫かごと対面する。よく見ると、虫かごの底には大量の死骸と糞が溜まっているのであった。引き出しの奥には、4つほど消臭剤が投げ込んであるのが分かった。

そういえば、虫かごに気をとられ、ベッド側への警戒を全く怠っていた。勢いよく振り向けば、さらに一匹の死骸。その一匹は、濡れたシーツに横たわっている。

昨日は、我々二人でこの部屋に帰ってきて、朝もそうだったはずだ。今この時点で、もう私は虫かごを愛している。

私は、虫かごの中身をベッドにぶちまける。何故か、彼の足音が向かってくる。私は今晩、彼とセックスをする夢を見ると確信する。足音は急に消える。疲れて、仲間達のうごめくベッドに倒れ込む。すると、ベッドは私の身体を吸い取り、そこにはあたり一面のみずみずしい緑の景色が広がっているのであった。


カマキリは、日差しが緑を痛く照らす夏の終りに発情する。私は、興奮した性器を露わにしたまま、メスに近づく。交尾が始まる。メスは、私を頭から食す。この共食いは、生殖期にメスがしっかりと栄養を取るためだと言う。ただ、一説には、オスの脳内の交尾抑制作用が解除されるのだとも言われている。

私はかねてから後者の説に一理あると思っていた。そして、今それが証明されている。我が身体が、メスの食欲の眼差しに包まれる。射精などというクソ程の快しか知らない人間のオスに、この幸福が分かるはずもなかろう。私の細くとがった顎、鋭いツメ、柔らかい眼球、、、いや、私そのものが、メスの口内で溶けて快楽に変る。私は、メスの全身を駆け巡り、細胞と共に喜びを分かち合う。私は彼女の身体になる。

あぁ、いま、たぶん、受精している。生命の終わりなき環が、こうして無限分の一の歩を進める。

そしてまた、気分の悪い卵がいくつも、ベトベトとこの地球に堕とされる。


2020/8/30。(2022/9/9、加筆修正。)

*私は彼の部屋に泊まらせてもらう時、布団をリビングに敷いて寝ている。彼は寝室で寝る。

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