そんなのわかってたのなら笑い話にでもしてよ
去年の8月後半から、気付いたらなんとなく毎日更新するようになっていたnote。
土曜日、初めて行ったフジロック2日目、朝までオールして音楽に浸って、雨に打たれてぼろぼろになってハイなテンションで、そのまま日曜日の外苑前で好きな人たちの雑談を聞くイベントに参加して、頭のなかにたくさん問いができて。帰ってきて、15時間寝た。
そして月曜日、あ、note書いていない。もう遅い。今まで、海外に社員旅行に行ったときでさえ書き溜めておいたけれど、今の私のキャパでそれはできなかったんだなあと客観的に思う。そうだよねぇ、そうだよなぁ。書くことは救いで、お守りみたいなもので。義務ではなくて。
私がnoteを書いていて、よかったこと。noteきっかけに知り合う人が増えたこと、自己紹介で伝えられることが少しだけ増えたこと。毎日、noteを書くネタを探すつもりで生きたこと、どんなに落ち込んでも文章を打っているときは自分ひとりで深呼吸して繭に守られているような気がして、悲しくても絶望を感じていても安心できていたこと。お昼ごはんを早めに切り上げて、会社のおこもりスペースでMacを叩いている時間が私が生きられる時間だった。別にそれは今も変わらない。その余裕がなくなっている事実もある、詰め込んで毎日どこか急いでいる自分のこと、好きなときと嫌いなときがある。
一旦、毎日書くことは多分やめる。別にそんなに大層な理由もない、書きたいときに、書きたいことを、読みたい私に向けて書く。
何を大事にしたいんだろう、そうやってぐるぐる考えるには、私は頭のなかだけでは無理で、紙に向かうか、PCに向かって文章を浮かべ並べることで、自分のなかで整理されていく感覚だ。話すのが苦手、自分のなかに渦巻いている言葉を選べなくて、決まった言葉だけを発してしまう。落ち着いて言葉を発することができない、に近いかも。ううん。
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どこまでも、愛の人で在りたいと思うし、26年生きるなかで、私は私だともう開きなおってしまった部分もある。興味がない人やファイティングポーズをとっている人たちと無理に対峙する必要もない。その価値観のなかで生きている人たちと戦いたいと思わなくなった。私が望むのは、違うってことがそのまま許容されている、ある意味混沌とした世界。でも、みんながのびのび生き生きしている。それが心地よい。みんな一緒で仲良しこよし、予定調和、が苦手なんだなぁって改めて思うことの多い日々だ。息がしづらいなって思うとき、深く息を吸うためにも、ちょっと見える景色が違う場所へ足を運んでみたい。ちゃんと、ひとりになる。
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