見出し画像

大人と子どもと閉じた時間と

手から何かがこぼれおちていくような感覚、話が通じない人と曖昧な笑みを交わす時間、電車の音で聞こえなかった会話(でもなんて言ったか聞き返さないまま話し続ける)

意気込んでいた自分の欠片が、するすると形を失っていく。いつまでも開通しないネット回線を言い訳に、窓をあけて通り抜ける風を感じながら、本を読み続ける。本当は出そうと思っている手紙、その文字たち。
鈍感になった瞬間を自覚することがある。あ、いま、わたしはあきらめた、と。書いていない入居前チェックの紙。テレビボードの下にお行儀よくたたずむ。量ばかり多くなってしまった髪をすきたい。でも、行きたいお店は電車でしか行けなくて、今は営業をおやすみしている。髪を切りたい感覚より、あの空間で時間を過ごしたい、温かい飲み物を選んで、カラーを待っている間に飲みたい、って感覚が強い。日常だと、しあわせだと思っていることを、さっと手放して笑える人になりたかった。いつまでもこんなにうじうじと悩んでいるなんて、なさけない。

わたしが恋人に伝えたいことはいつも、わざわざ言うほどでもないすべてのこと。LINEで送るまでもない、今日伝えた数分後には頭のなかから消えてしまうかもしれない話。でも、それで笑う顔が好きだ。大阪に住んで長い友人のように、話をまとめて伝えられてオチもつけられたら格好良いんだろうけど。日常を一緒に面白がって、体験して、聞いてもらうことが価値だと思ってしまう。子供じみている。

子供の頃の記憶、名探偵コナンのエンディングを、夜が終わってしまうことの合図だと知ってからは悲しい(さみしい)気持ちで眺めるようになった。大人になって、なにかの始まりは、なにかの終わりだと知っているけれど、知ったところで何も変わらない。変わらずさみしくなるし、子供に戻ってしまうのだ。

散歩中に見た人懐っこいカメ、おやつ代わりに食べている八百屋のプチトマト、四六時中窓を開け放しているからざらざらになるドレッサーと手帳。栄養を摂る代わりに本を読む、インターネットの海を泳ぐ、ドラマの再放送を観る。家事をして眠っていても終わってしまう日常に、どうして必要以上の意味を持たせなければならないことになっているんだろう。ちょっと疲れているのはわかっているけれど、今は、波の途中にいる。自分でも面倒臭いけれど、仕方なく波に揺られている。ゆらゆら、ぐるぐる。ラヴェルのピアノが流れている。雨の日みたい。

(♩= Pavane pour une infante défunte/Ravel)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?