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『ドラえもんのび太の南海大冒険』は革命ではなかったか

ドラえもん博士になりたかった。
少なくとも小学校のなかで一番詳しい人間でありたかった。
一人で留守番をするときは大晦日のドラえもん3時間スペシャルや映画のテレビ放送の録画を見て過ごしていた。

小学生高学年、中学生になるあたりに「ドラえもんが好きな自分」が気持ち悪い人間に思えてきて、ドラえもん博士になる夢を自ら遠ざけるようになり、声優陣製作陣が一新され、大山のぶ代ドラえもんが消滅、水田わさびドラえもんが誕生したことで、私とドラえもんとの隔絶は決定的になった。

結局、てんとう虫コミックスの単行本を45巻全て読むこともなかった。
藤子・F・不二雄ミュージアムには未だに行っていない。

それでもドラえもんは多少は自分にとって特別な存在で、Amazonのプライムビデオで昔の劇場版ドラえもんのサムネイルを見ると、「あれ?これってどんな話だったけなあ」と昔の記憶を掘り起こそうとしてみる。ポチっと見ればいいのだけど、そこまでの熱はなくてすぐに別のタイトルに興味が移ってしまう。

ただ『のび太の南海大冒険』はなんとなくポチっと見てしまった。
劇場版ドラえもん第19作目。1998年公開。
ちょうどドラえもん博士になろうと決意したあたりの作品で、映画館で見た記憶がはっきりと残っている。
思い出深い作品だけれど、レビューを見るとあまり評判はよろしくない。

子供だましのギャグが冷める、江守徹をはじめとするゲスト声優が邪魔。そして、吉川ひなのの歌が壊滅的。など細かいところが批判されているものの、この映画を高く評価しにくい理由ははっきりしている。

藤子・F・不二雄がいない、ということである。

それまでの映画ドラえもんシリーズの原作、製作総指揮、脚本は藤子・F・不二雄が手掛けている。

映画の公開に先立ち原作漫画の連載が漫画雑誌コロコロコミックで始まるのは恒例になっていた。

今思うとこれは異常なことだ。

例えば、ワンピースの映画で尾田栄一郎が総合プロデュースを務めたさいは、「原作者が総合プロデュースを携わるのは異例なこと」という宣伝がなされていた。

映画ドラえもんは第一作から原作者の藤子・F・不二雄が製作総指揮を務めている。「異例」が常態化した、文字通り「異常」な企画が映画ドラえもんだった。

藤子・F・不二雄は第18作の『ねじまき都市冒険記』の原作漫画執筆中に絶命し、第19作の『南海大冒険』は藤子・F・不二雄が去ったあと初めての映画ドラえもんとなった。

映画ドラえもんにおける藤子・F・不二雄の影響力は凄まじい。

冷静に藤子・F・不二雄のドラえもん映画を分析してみると、若干違和感を覚えるところもある。

摩訶不思議な世界に観客を連れ出し、その世界に魅了させるのだけれど、全体の物語の構造はいびつなのだ。

特に終盤の展開はあまりにも唐突で、ラスボスと対峙したと思うとあっという間に決着が着いてしまう。本来ならば、終盤に向けて伏線などを張り巡らしつつ、主人公の葛藤を描くべきところを、さらっと流して、タイムパトロールやらの外部の存在によって解決してしまう。

物語の構造としては貧弱な面がありながら、それでも藤子・F・不二雄のドラえもん映画には他に変えがたい魅力がある。

それは藤子・F・不二雄が描く世界にほかならない。

摩訶不思議な世界であるにも関わらず、そこに確かに人々が生活をし、異常な世界にも、「普通の世界」が存在しているということを説得力をもって描く。

その不思議な世界の人々が何を食べているか、何を原料にエネルギーを生み出しているのか、何を楽しみに生きているのか、というところを藤子・F・不二雄は丁寧に描いている。

藤子・F・不二雄のドラえもん映画の主人公は、ドラえもんでものび太でもなく、その世界なのである。

その世界をみた子供たちは、その旺盛な創造力を働かせ、その世界にもし自分がいるとしたら、こんなに楽しい世界なのではないか、とあれこれと考えさせる。

そこに藤子・F・不二雄は喜びを感じていたのではないかと思わせる。

しかし、そんな豊潤な世界は誰もが創り出せるわけではない。
ある種の選ばれた人だけが創り出せるものだ。

藤子・F・不二雄の世界は、藤子・F・不二雄にしか創れない。

藤子・F・不二雄を失ったあとの映画ドラえもんには、そんなある種の理不尽な現実との葛藤がみえる。

『南海大冒険』が描く世界には、やはり藤子・F・不二雄が創り出した世界ほどの豊潤さはない。
どこかありふれていて、その世界に夢中になる何かが欠如している。

しかし、『南海大冒険』にはこれまでの藤子・F・不二雄が描かなかったことが丹念に描かれている。

それは、キャラクターである。

のび太と仲間たちの友情、ジャイアンの男気、のび太の優しさ、スネ夫のメカ技術、しずかちゃんの勇気、秘密道具を失ったドラえもんに残された石頭という武器。

これまではそれほど重点的に描かれなかった要素をふんだんに盛り込んでいる。

それを軸に描いた『南海大冒険』は、これまでの藤子・F・不二雄のドラえもん映画とは異なり、物語の構造は極めて堅牢で揺るぎない。誰もが楽しめる物語になっている。

『南海大冒険』は過去のドラえもん映画よりも高い興業収入を残した。

たとえ藤子・F・不二雄の天才的な発想力がなくとも、キャラクターを丹念に描き、物語の構造を丁寧に作り上げることで、映画ドラえもんは面白くすることができるということを、『南海大冒険』は証明してみせた。

今思えば、この結果はドラえもんの歴史において極めて重要なことだと思う。

もし、藤子・F・不二雄のあとの映画ドラえもんが面白くなければ、ドラえもんが現在まで愛された存在になっただろうか。

『南海大冒険』はいわば「ドラえもんの民主化」なのだ。ドラえもんは藤子・F・不二雄の手を離れ、誰しもがドラえもんを描くことができるものになった。

そのことが製作陣と声優陣の一新という大転換の原動力となり、いまだにドラえもんは子供たちに愛される存在であり続けている。

ここで改めて『南海大冒険』の主題歌である吉川ひなの『ホットミルク』を聞いてみる。
https://youtu.be/dWicQnSORFo?si=nuVr86YUIOicg0V0

音程は壊滅的で、声は幼く抑揚もなく、胸に迫るようなものではない。

しかし、その歌詞をじっくりと読んでみると、はっと気づくことがある。

たとえば、サビのワンフレーズ。

あなたの一番大切なもの
あたしが一番知ってるはずでしょう
そんな小さな確信を
手のひらに握りしめてる

そして、中盤の吉川ひなのの独白

あなたのせいであなたが必要だよ
あなたもあたしのせいで
あたしがきっと必要になるよ
そう信じてる

ここにきて、繰り返されるフレーズの重みを知る。

夢の中ではそばにいて
優しく愛してくれるの
「それはなぜ?」って聞いたとたん
目が覚めちゃうの

これはただのラブソングではないのではないか。

「あなた」を藤子・F・不二雄に置き換えたとき、そして「あたし」をドラえもんの製作陣に置き換えたとき、ハッとして、吉川ひなのの幼稚な歌声が胸に迫る。

きっとこの先も、また、春休みには映画ドラえもんがやってくる。

次の映画ドラえもんは製作陣と声優陣が一新されてから、18作目になる。

藤子・F・不二雄が手掛けたドラえもん映画と同じ数になる。

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