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サウナ懺悔。ととのわなかったという罪と赦し

あの日のことを、今でも思い出すんです。

コンビニで買い物をしている時でも、満員電車に詰め込まれている時でも、家で食事をしている時でも、なんのきっかけもなく、ふと、思い出すんです。

その、ふと、の瞬間、あの日の光景が頭の中で立ち上ってきて、それが際限なく広がっていくのです。

なんと言えばいいのでしょう。

格好つけた言い方をすれば、私の脳があの日に支配される、とでも言いますか。


そして、長い支配の後、私は頭のなかで、こう叫ぶんです。


なんてことをしてしまったのだ!

と。


もしかしたら…

いや、違いますね。そう、きっと、。うん。きっと、ですね。きっと

あの日、きっと、私は罪を犯したんです

あの日、ドーミーインで。


ドーミーインに行くのを決めたのは、あの日の1ヶ月前でしょうか。

妻が子供の顔を見せに実家に、金土と泊まってくると言いました。

父として、我が子と離れる寂しさはありましたが、どこかで喜んでいる自分がいました。

子供が生まれてから、自由に動ける時間が驚くほど無くなりました。

ふらり、と意味もなく近所のコンビニに行って、ふらりと新作のビールがないか確認して、無ければふらりと店を出る。
、なんて、ことができなくなりました。

近所のコンビニですら、そうなのですから、サウナに行くなんてできないでしょう。

ええ。サウナが好きでした。
もちろん、今も好きですよ。

よく行った時期は週3回くらい行っていたのですから、なかなかのサウナ好きだったと偉そうに自負しています。

サウナー?
あぁ…私はそういうの恥ずかしくなってしまって、ただのサウナ好きです。はい。

久々に過ごす「自由な」時間をどう過ごそう
悩むことはありませんでした。

サウナに行こうと。

そう決めました。


変に思われるかもしれません。

行ったのはドーミーインだろう、と。
ビジネスホテルだろう。と。

ふつうなら「ホテルに行く」「ホテルに泊まる」と言うべきなのでしょう。

でも、あのとき、私は確かに「サウナに行く」と決めたのです。


ドーミーインのサウナは特別なんです。

そりゃあ、もっといいサウナがあるところも知っていますよ。

ドーミーインもサウナに力を入れているとはいえ、「ビジネスホテルにしては」という枕詞が必要です。
最近のサウナブームはすごいですからね。次から次に、すごいサウナができています。

あ、それを言うと、先ほど、私は枕詞を忘れていました。

つまり、「私にとっては」、ドーミーインのサウナは特別なんです。

それは私がサウナの世界にどっぷりと浸かることになったきっかけの場所だからです。

あれは…

あ、失礼しました。そんな昔話をしてる時間は勿体ない。
簡単に言えば、昔、ひとり旅をしたときに泊まったとあるドーミーインでサウナに入った時に、初めて「ととのった」という経験があるんです。私には。


だから、この久々の自由には、ドーミーインのサウナだろうと思って予約を入れました。

それまでの間は、この日を迎えるまでの時間、くらいにしか思えませんでした。

来る日も来る日も、ただ待ちわびていたんです。ずっと。あの日を。

あの日はすぐにやってきました。

金曜日でした。


寒くもなく暑くもない晴れの日、と全体を通して見れば、そういう天気と言えるのでしょうが、昼は少し暖かく、夕方以降は少し涼しい、といった感じでした。

仕事は定時で上がってドーミーインに向かいました。

なぜか出張中のような雰囲気を出しながらチェックインをして、部屋に向かい、いつもの着心地のよい部屋着を来て、すぐに大浴場へ。

そのとき、お昼を食べてから、なにも口にしていないことに気がつきましたが、満腹状態でサウナに入るのはご法度である、との話や、サウナ終わりの食事が格別であるとの話を思い出し、まあ、それでもいいだろうと考え、そのまま大浴場へ行きました。

脱衣場には、あのヒーリング音楽というのでしょうか、なにやら幻想的でゆったりとしたリズムの音楽が流れていました。

ああ、私は今、ドーミーインにいるのだ。と実感しました。音楽の力というのは偉大です。

大浴場に入り、そして、体を洗い、サウナに入りました。


中には一人の先客がいるのみ。

90℃を超える乾いた空気に触れ、皮膚がチリチリと痛みました。

痛みというのは、人間が一種の動物にすぎないのであれば避けるのが自然ですが、この時の痛みほど求めていた痛みはなかったでしょう。

なにやら檜の香りがします。詳しくはよくわかりませんが、なにやら檜の木か、少なくとも檜の芳香が出るような何かをどこかにぶら下げて、香りが立つようにしているようなのです。

上段に座り、じっくりと体を温めることにしました。

12分計が半周したあたり、どうもおかしい。

汗が出ない。

ドライサウナでは、よくある話なのはわかっています。汗が出るやいなや、蒸発をしてしまう。そういう現象が起きる。と。

しかし、体は十分に温まっているのは感じていました。なのに汗が中々出ない。こんな経験は今までありませんでした。

そして、その数分後、体が少し苦しい

普段だったら、これは体が水風呂を要求している証拠だ、と思うくらいの感じではありましたが、汗が出ないので、これはどうなのか、よくわからない。

体を動かすと、乾いた肌がパリパリと剥がれるような感覚がありました。

これは、何だ?

汗をかくのを待つべきか。しかし、このまま10分を越えるのは勇気がいる。

確かに体は苦しい。

これが十分に体が熱されたためなのか、乾いた空気による息苦しさゆえか。

じっくりと考える余裕はないわけです。だって体はもう苦しいわけですから。

ぐるぐる思考を巡らせているあいだに、もう体が限界に近くなり、サウナを出ることにしました。


サウナのドアを開けた瞬間。

外の空気に触れて、まず感じたこと。それは。

寒い

でした。

サウナに10分間いたのに、体はそれほど温まっていなかった。ということです。

いつもはそんなことはありません。

サウナから出てから、水風呂に行くまでの間、イメージしていることがあります。

刀鍛冶です。

熱して赤くなった鉄が、水の中に入り、ジューという音ともに急激に冷える。

あのイメージを自分に重ねるのです。


ところがです。今回はどうでしょう。

もしこの刀鍛冶に例えるなら、火から出して真っ赤だった鉄が水に入れる前に、光を失ってしまった、とでもいいましょうか。

いやもしかしたら、火から出したとき、すでに鉄は光っていなかったのかもしれない。

この時の絶望感たらありません。

ここで考えたのは、もう一度サウナに入り直すか。ということ。

しかし、鼓動の音は大きくなっているし、心拍は速くなっているのは感じていました。

それに、もう一度あの息苦しさを体験するには少し時間を置く必要があると、体が訴えている。

動揺したとき、心掛けるべきなのは「いつも通り」にすること、だと聞いたことがありました。

なので、できるだけいつものルーティンを全うすることを目指し、水風呂に入ることにしました。

この時のドーミーインの水風呂は、サウナ好きの要望に応えるために、普段よりも低い温度に設定されていました。

たしか、13℃くらいだったと思います。

当然ながら体はあっという間に冷え、すぐに肺から吐き出す空気が冷たくなっているのを感じていました。(これが普段、水風呂からあがるタイミングでした)

水風呂からあがり、浴室にある椅子に腰掛けました。椅子の前には、座っている椅子と同じ高さで背もたれのない椅子、これは台というのが適しているのかもしれませんが。
ともあれ、ここに足を乗っけて脱力することができました

露天はないのですが、扇風機が取りつけられており、心地よい風が送られていました。

おわかりでしょう。 

この水風呂とこの休憩スペース。

セッティングとしては完璧なのです。

それなのに


そう。それなのに。という言葉が私を苦しめているのです。

からだの水を拭き取り、椅子に座りました。

体は冷えきっていましたが、鼓動は力強く聞こえる。

この血流がこの冷えきった体を温め、そして、「ととのう」はずだ。

私はこれに賭けることにしました

いや、これに賭けるしかなかった。

結論を先に。まあ、言わずともわかるでしょう。

賭けには負けました

「ととのう」には、あと一歩も二歩も三歩も届かず、ただ、冷えた体を横たえ、不明瞭な思考を回すだけの時間を過ごしただけでした。

「いつも通り、いつも通り」と頭で呟きながら、いつも通りのサウナ→水風呂→休憩の3セットをやりました。

そして、なにも起こりませんでした。


今回で学んだことは、冷えた体を温め、芯まで温まらないまま冷やし、体を寝かせることを繰り返しても、なにも起こらず、なにもととのわない、ということでした。

まあ、今ならこんな皮肉を思い付くわけですけど、そのときは、あれだけ楽しみにしていた、ドーミーインのサウナをこうして終えてしまった、という失望感というか、喪失感というか、そういうものしか頭にはなかったわけです。


ドーミーインでの自由な時間は何もサウナだけではないわけで、近所の飲み屋でうまい飯とうまい酒を味わい、コンビニでつまみと酒を買い、ほどよく酔ったタイミングでドーミーイン名物の夜鳴きそばを食べ、再び大浴場でゆったりとお湯につかり、飲み足らなければ風呂上がりにもう一杯。

という計画を立てていたのですが、それは久々のサウナをこころゆくまで楽しんだことを前提としたものでした。

ところが、その前提が崩れてしまったので、その後もうまくいかないわけです。

まず夕食。

本来なら、サウナ上がりのととのった後の心地よい疲労感と共にやってくる空腹感を満たすために食事をするつもりでした。

空腹は最高のスパイスである。という言葉があります。

しかし、サウナがうまくいかなかった。疲労感、というよりも徒労感を感じていました。正直、空腹感はありませんでした。

しかし、サウナに入る前には確かに空腹感があったし、昼食から経っている時間を考慮しても、このタイミングで夕飯をとらねばならない。だから、夕飯を食べに行きました。

要は、頭で作り上げた空腹感を抱えて夕飯に向かったわけです。それは体が本能的に訴える空腹感とは別物です。

ゆえに、この空腹は何のスパイスにはなりませんでした。

このときの夕食は、ひどい言い方をすれば、作業として食べ、作業として酒を飲みました。

そして、変な酔いかたをしました。

夜鳴きそばも、こんなもんか、という感じで、まあ、魔法がとけた、とでも言っておきましょう。

部屋に戻り、夕飯の帰りに買ったお酒を飲んでいると急に疲れが襲ってきて、少しの間、ベッドで横になり、休憩をする、つもりでした。

気づいたときには朝の4時。電気をつけたまま寝てしまい、空調のききすぎた部屋は乾燥していて、口の中も乾ききっていて気持ち悪い。

歯をみがき、チェックアウトギリギリまで寝ることにしました。

朝風呂に入ってもよかったのではないかと思ったのはホテルを出た後の事でした。

それくらい頭が回っていなかった。意識の上に白いもやがかかっているような感じで過ごしていたのです。


一言で言えば、ドーミーインのホテルでととのうことができなかった。

ただそれだけのことです。


でも、こんなに長く引きずることになるとは思いもしなかった。

去来するこの感情に最も適しているのは、罪悪感だと気付いたのです。


わたしは罪を犯したのです


誰に?

さあ、誰なんでしょう。
ドーミーインか?この時間を作ってくれた人達か?
それとももっと抽象的で巨大な何かか?

どうすればよいのでしょう。

どう向き合えばよいのでしょう。

時が解決するのでしょうか。

私はこのまま苦しむしかないのでしょうか。



お話をしていただきありがとうございました。

さぞ辛かったでしょう。

あなたのことを大袈裟に考えすぎている、と蔑む人がいるでしょう。

私はそうとは思いません。

あなたが感じたこと、苦しんでいることは紛れもない事実、真実であり、それを否定するとは誰であってもできないはずなのです

なぜ苦しんでいるか、わかりますか?
その苦しみの根元にあるものが何か、わかりますか?

それは愛です。サウナに対する愛です。

あなたはサウナを愛している。

あなたはサウナを嫌いになることはできない。それゆえに、ととのわなかった、ということ、その憎しみのようなものをあなた自身に向けているのです。


サウナ室は自分自身との対話の空間である、という人がいます。あなたはサウナを終えたあとも、ずっと自分自身に憎しみの刃を向けていました。

これほど凄まじい自分自身との対話はあるでしょうか?

あなたの心は、あのサウナ室から出てきていない、ということもできるでしょう。

もうあなたはサウナ室から出て、水風呂に入るべきです。自分自身に向けた刃から手を離して。

わたしはあなたのサウナへの愛を認めます。そしてその愛を自分自身にも向けるべきです。


そうしたいが、できない。

なぜか。

それはあなたの言葉にも現れています。

罪悪感

そう。あなたは罪の意識があるのです。

この感情から真に解放されるには、罪を償うしかありません。

償う方法。

それは「サウナを心から楽しむ」。それしかないはずです。

ととのわないのが怖い?

実をいうと、その感情こそがあなたを苦しめているもの。すなわち、あなたが本当に戦うべきものなのではないでしょうか。

あなたのサウナへの愛は、「ととのいへの執着」になってはいませんか?

ととのう、なんて所詮は単なる体の反応にすぎません。

その日の体調よって、起きないことがあって当然です。
ととなわないからといって異常でもなければ、ととのうことが正しいことではありません。


ただサウナを楽しめばよいのです

さらに、もっといえばサウナなど、温浴施設に設置された器具や設備にすぎません

もっと広く見てください。

サウナがある場所。そこには、足を伸ばせる湯船があるではないですか。

熱いお湯、ぬるいお湯、さまざまなお風呂があるではないですか。

なぜあなたは、あの時、体が温まらない、汗が出ないにも関わらず、お湯に浸かろうと考えなかったのですか?

お風呂に入ると、のぼせてしまってサウナに何回も入れないのではないか?
そう考えたのではないですか?

それはサウナへの愛ではありません。

それは単なる執着なのです。

あなたが湯船で温まろうが、サウナはそこにあり続けます。

しっかりと湯船で温まり、体が汗をかく準備ができたあとに、サウナに入ればよいのです。

たとえ体が疲れてサウナに短い時間しか入れなくても、1回しか入れなくても、準備ができていない状態で何回もサウナに入るよりも、楽しめるのではないですか?

3回のととのいを求めて3回失敗をするくらいなら、1回のととのいのために準備をするべきなのです。


更に、あなたは寝る前にお風呂を入ることも、朝風呂に入ることもしませんでした。

泥酔をしているのなら話は別ですが、意識もしっかりしていて、水分補給も充分できるのであれば、数分でもお風呂に入るべきなのです。

風呂に浸かり、体を温める。
この日本で育った人にとって当たり前の営み。「いつも通り」の営み。

サウナに3回入ること、よりももっと意識すべき「いつも通り」をあなたは忘れてしまっていたのです。ととのうことへの執着によって。

風呂に入って後悔することはないのです

サウナへの愛を風呂への愛にも膨らませて下さい。

そうすれば、世界は変わります。

わたしからの言葉は以上になります。

サウナへの愛とは、ととのいへの執着ではない。

サウナだけではなく、サウナのある空間、すなわち、風呂への愛にしていく。

そのことを心のどこかに置いておいてください。



ありがとうございます。

実は、また今度、時間ができまして、またドーミーインに行こうと思っているのです。

そのときは、今の言葉を胸にサウナに行こうと思います。



さようですか。それはよいですね。
そのときのお話、聞かせてくださいね。

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