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Critical Legacy 2

 好川誠一は1934年(昭和9年)5月9日、福島県大沼郡本郷町で陶磁器業を営む両親の長男として生まれました。幼い頃はきわめて腕白で、生傷のたえることがなかったといいます。地元の中学校を卒業すると上京、下町の印刷工場で働きながら詩作を始めました。意欲的な誌面づくりをしていたものの《素朴実在的な生活詩が蔓延していた》(小田)「文章倶楽部」の投稿欄に投稿をして、当時の選者だった谷川俊太郎と鮎川信夫を驚かせます。「特選」に選ばれた詩「花よおかえりなさい」を読めばわかるように、十代でありながら生活に根ざさざるをえない実存的存在であることの暗い情念が沸々と溢れる、力強い詩が他の投稿詩のなかで際立っていたことは十分に理解できることです。


 先述した通り、好川が投稿欄から身を引くと待っていたかのように石原吉郎が「夜の招待」「結実期」の二篇を「文章倶楽部」10月号と11月号に相次いで投稿、これを選者の谷川と鮎川が好意と称賛で迎えました。翌年もまた投稿した石原の作品八篇が「文章倶楽部」に掲載され、そのうち六篇が「特選」に選ばれました。


 好川誠一が代表して結成を呼びかけた「ロシナンテ詩話会」から、必然的に誕生した詩誌「ロシナンテ」の実質的な発行責任者は石原吉郎で、好川誠一は編集担当という役回りでした。「文章倶楽部」三羽烏のうちのもう一人である勝野睦人が加わり、やがて投稿欄常連組の粕谷栄市・岡田芳郎・田中武・河野澄子・川井雅子(小柳玲子)・竹下育男・岸岡正・淀縄美三子・吉田睦彦・大橋千晶などが順次加わって大所帯になりました。その「ロシナンテ」同人の一人である小柳玲子(川井雅子の妹名で活動)が、1986年から同人詩誌「言葉」に連載していたエッセイは、石原・好川と「ロシナンテ」同人、石原と杉克彦との関係性などを描いた文章なのですが、小柳自身の逡巡によって書籍化が先延ばしされていたのを、2004年にやっと『サンチョ・パンサの行方』というタイトルで「詩学社」から刊行されます。以下、適宜そこから抜粋しながら書き記します。

 《出発がほぼ同時であった》好川と石原は《ライバルにならざるを得な》い関係でした。さらに《すぐ後方から追うように書き始めた勝野睦人が、そのみずみずしい抒情性で早くも好川誠一を追い抜こうとしていた》といいます。飛ぶ鳥を落とす勢いの勝野でしたが、1957年(昭和32年)6月25日、東大農学部付近(本郷西片町)の歩道を歩いているとき、カーブを切り損なったオート三輪に跳ねられて即死します。弱冠20歳でした。翌年に思潮社から『勝野睦人遺稿詩集』が刊行され、ついで詩誌「ロシナンテ」で同人仲間だった竹下育男の尽力によって『勝野睦人書簡集』が出版されました。勝野の詩を一篇部分引用してみます。
 「哀しみ」は
 だれの裡にも
 鐘楼のようにそびえています
 あるひとは
 とおくそれを仰いだだけで
 さかしく瞳をそらせます
 また あるひとは
 こころのおもわぬ方角に
 その姿が ふいにたちはだかるのに驚き
 ひそかに小首をかしげます
 けれども もっとべつなひとは
 その周囲をせわしなくめぐりつづけています
 車輪が車軸にこだわるように
 言葉が言葉の意味をまさぐるように
 そうしてはてしないその目眩きのうちに
 ついにはすべてを見失ないます
                      「鐘楼」書き出し部分
 冒頭からのカギ括弧や複数ある「その」という連体詞や代名詞が気になりますが、早熟で芸術性の高い、好川とは好対照に社会性とは距離をとった形而上学的ともいえる志のある詩だということはわかります。石原は、勝野の詩を評して《言葉と比喩に対する彼の行きとどいた配慮と、敬虔に近い周到さ》があり、《宝石のようにみがきあげずにはすませない職人気質》を有していたと語りました。また小田に《緻密で高雅で古典的な結晶度の高い技法(略)そのまま開花すれば、新しい白秋とでもいわれるような技巧派詩人を、戦後の詩壇に確実に誕生させるはずだった》と言わしめるほどの逸材で、将来性を嘱望された詩人でした。


 勝野睦人が事故で死んだとき、好川は《つつみ隠しようもなく喜んだ。若くて正直でありすぎたのだろうが、圏外者の私ですらその喜びように嫌悪を覚えたのだから、石原吉郎の彼に対する気持は嫌悪を通りこして怒りになっていた。弱者に対してことのほか優しかった石原吉郎は、逆に好川誠一の話になると露骨に冷酷な表情になった》といいます。好川の勝野に対する率直すぎる思いの発露と、好川の言動からその心理が手にとるように理解でき自身の気持ちを嫌悪から怒りに亢進させた石原、それらを冷静に描写する小柳の冷厳な視線とがいいようのない趣の、なんというドラマツルギーなのでしょう。小柳はさらに筆を運びます。《束の間の才能が花を散らすと、残っているのはライバルの詩的成功と己の貧しい生活》であり、《自分が日に日に枯れていき、相手はまたたくうちに高みに登っていくのを、空しく見ていなければならない時、どんな苦痛がその人の胸を咬むのだろう》と、好川の心理を慮って、小柳はついには《不運のクジを引いてしまった》と結論づけるのです。


                             (つづく)

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