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母娘による壮絶な確執の旅

葉山美玖 詩集『春の箱庭』(空とぶキリン社)

 前作の『約束』は内実と表現形式、それにレトリック三者のバランスが拮抗しており完成度も高かったが、本作では詩的虚飾が剥ぎ取られ、より生の感情が過去形で語られ精神史でも繙いている感覚に襲われた。とはいえ創作は虚実綯交ぜにするものだから、ことの真相を暴くものではないし、そこに軸足が置かれているわけでもない。いってみれば小説や絵本も上梓している葉山が、なぜ文学にのめり込むことになったか自身の創作の原点を探しだし、探り当てようとする精神的行為が詩作となった感が強い。そこには家族との、とくに母親との葛藤や負性に傾斜する交流の、壮絶な出来事が内面の鏡に映写されるかのように生々しく描かれている。〈この子さえいなければ/自分は幸せになれたのにと思った//(中略)//母はこころを病んでいた〉(『私がうまれた頃』)と、自身の存在を否定する言辞を母親から浴びせられた子は、どんな歪な性格をもつ大人に成長するかは言を俟たないだろう。しかしこの詩篇では、最終行の〈病んでいた〉により母娘の関係性は逆転して、娘は母を客観視できるまでに変貌していたことがわかる。本書は創作者葉山の精神史という、荒波が去った後の視点、それゆえの平穏を獲得した現状から描かれており、詩集全体は静謐なトーンで貫かれている。表題であり三章の最後『春の箱庭』は、その平穏で静謐な語句で纏められ大海に到達したかの明るい「明日への希望」に満たされている。だが大海に至る前、真ん中の章『猫仏』の後半にある詩篇『骨壺』に私は母娘の葛藤の結末である結晶体をみる思いがした。このような詩だ。〈ひそやかな夜長に/母の骨壺を抱えて/一本一本白い骨を取り出し/この人に滅茶苦茶に折られた私の脚に/添え木をする。//母は本当に女であった//母親である前に一人の女であった/この人の/白い白い骨で/私の傷ついた足を立て直す/白く/柔らかで/底のない//夜。〉(『骨壺』全行)と、凄まじい母娘の葛藤が昇華して言語化された詩である。〈滅茶苦茶に折られた〉脚に〈添え木をする〉とは、肉親によって負性傾向に向けられた精神性を救助したいとするイメージであり暗喩だ。母親を〈この人〉とする客観視こそ昇華のシンボルだと指摘できるし、本書は詩的形式で書かれた一冊の小説にも比肩できる、母娘物語の傑作だったと私は断言したい欲望に捕らわれる。

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