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シチリアの風に撃たれて

ゴッドファーザー3部作を観た。かなり俺好みの映画だったのでとりあえず感想を投稿する。

ゴッドファーザーとは、要するにマフィアのボスのことだ。本当はカトリックの言葉で名付け親という意味があるらしいが、この映画で指しているのはもちろんマフィアのことだ。この映画はそんなマフィアの繁栄と、そして同時に降りかかる悲劇について描かれた作品だ。

主人公はゴッドファーザーであるビト・コルレオーネの息子、マイケル。しかしマイケルは家のビジネスには一切関わらずに生きていくことを決めていて、一言で言うとカタギの人間だった。しかし、それは運命だったのか、彼は父親を救うために裏社会に足を踏み出すことになるのだ。

しかしそうは言ってもマイケルはクールで、そしてすごく頭のキレる人間だった。ゴッドファーザーとしての才能があったと言っても良い。一作目では彼がゴッドファーザーになるまでの話が描かれるが、もはや最初に登場した時と最後のシーンでは全く別人となっている。敵をぶっ殺し、裏切り者をぶっ殺し、妻にも嘘をつき、もう元には戻れない。

あの時、マイケルが父親のビトを救うために汚職警官と麻薬ビジネスクソ野郎の脳天に弾丸をぶち込んだあの瞬間、運命の輪は動き始めた。

マイケルは真の男になった。

そして1部のラストで、マイケルはゴッドファーザーになった。

ゴッドファーザーは家族を守らなければならない。それが役目だからだ。そのために第2部、第3部で多くのものを失うことになる。家族を守るために、家族を粛清しなければならない。家族と距離を置かなければならない。ますます勢力を拡大していくコルレオーネファミリーとまるで反比例するかのようにマイケルの側から大切なものが離れていく。この最大の矛盾に苦悩するマイケルを見て俺も心が痛んだ。大勢の人間が死に、そして第3部のラストではマイケルは本当に大切なものを、彼がゴッドファーザーであるが故に失ってしまうのだ。これはあまりにも悲しい。あまりにも悲劇だった。

「何事も暴力で解決するのが一番だ」というのはよく聞くことだし(←?)、実際現実も、つまり人間の歴史も暴力の歴史で話し合いで世界が平和になったことなど一度もない。暴力とはそれほどまでに、便利で、有用な問題解決手段だ。

だが、それで全てを解決して、そして何が残る?

何も残らない。暴力の後には何も残らないのだ。

だから3部のラストシーンのマイケルは何もなく、孤独だったのだ。マフィアと暴力は、切っても切れない関係だ。それはたとえどれだけ彼らが健全な組織を目指し、財団にまで名称を変えたりして努力してきたとしても、まるで影のようにつきまとってくる。絶対に逃れられない。いつも最後には、悲しみだけが残る。


マフィアなんて本当にロクでもないものだ。そういう映画としては仁義なき戦いと路線は同じだが、なんだろう。ゴッドファーザーはまだ頂点のマイケルがまともで、まともに生きようとしているし、部下にもそうさせようとしている時点で似て非なるものだ。俺はマイケルは真のゴッドファーザーだと思った。それは良い意味でも、悪い意味でも。だからマイケルをみんな許してあげてほしい。半端な奴はぶち殺されてそいつの家族の元に防弾チョッキに包まれた魚が届く。そうだ。ここもまた、メキシコなのだ。


俺はラストシーンの、シチリアに戻り、日向ぼっこをしながら孤独に死んだマイケルを見て涙が止まらなかった。

マイケル、お前はパーフェクトだった。パーフェクトなゴッドファーザーだった。

全てを手に入れようとしたはずが、全て手のひらから滑り落ちていった。誰も悪くない。それは悲劇なのだ。

だから俺はせめてマイケルのために祈ろうと思う。

彼の魂よ。

どうか、シチリアの風に包まれてあれ。

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