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『なぜ生きるのか』 死が生に至る目的とは解脱。人生とは内なる宇宙への意識の旅。

1. 何に疑問を感じているのかやなぜ疑問に思っているのかに気づいていく。

『なぜ生きるのか』という問いかけに向き合うことと斉しく、なぜ妹はこの歯磨き粉を使うのかといった問いかけに向き合う日々。幼少期からだろう。意識が向いた事に対して、なぜを繰り返し問いかけてきた。

たとえば。街や町の並木を観ては、なぜこの木がこの位置に植えられているのか、なぜ他でもないこの種類が選定されたのか、を黙々と。

たとえば。祖父母の口論を耳にしては、なぜ同じ言葉を日々繰り返している状態に違和感を覚えてないのか、気づいていないのであれば、それはなぜか、潜在的にどのような感情や癖があるからなのか、を黙々と。

そもそも、なぜわたしはあらゆる事象に対して問いを抱くのか。直感的に違和感を感じているゆえなのか。無意識下で内に育まれ続けてきた不純物が鏡となって現れたものに反応しているゆえなのか。最近まで、その答えは視えてこなかった。

三十年の月日を経て出逢えた、「なぜわたしはあらゆる事象に対して問いを抱くのか。」に対する鍵は、表現の深層にある『大切にしたい想いを知りたい』という願いだった。

こちらでお伝えしていることはすべて『経験』(精神的、心身的体感)です。この記事が、あなたが自分の中で大切なことを意識する一助になれば倖いです。

2. すべての表層的な現象(表現)に気づくことで、「大切にしたい願いや必要性」に気づくことができていく。

『大切にしたい想い』はどういう状態において視えてくるのだろうか。シンプルに答えると、すべての状態で視えてくる、気がいまはしている。

どのような状態のあなたも、あなたにとって大切である。自身の内なる宇宙から、もしくは、他者などの媒質を通して、然るべく時に然るべき方法で引力が生じ、『気づく』ための導きを与えてくれているような気がしている。

本質的にはおなじである。
感謝の言葉も、批判的な言葉も。
わくわくする気持ちも、不安な気持ちも。
愛にあふれた対話も、悪意のある質問も。
心地いい雰囲気も、うんざりする癖も。
よろこびも、痛みも。
ハグも、暴力も。
信頼も、無視も。

物質の状態として、良いも悪いも、正しいも間違いも、大小も、優劣も、ポジティブもネガティブもない。ひとりひとりがもつ『大切にしたい想い』を元に無意識に形成した条件や軸をもって評価している状態が、ただそこに在る。

意識が向いていても、無意識下で生じていても、言葉や癖、振る舞いなど、表に出ている現象(表現)すべては、『大切にしたい想いを大切にしたい』という願いが「気づいてほしいな」のサインとして感情というカタチで瞬間瞬間に現れているのだろう。

だから、いかなる状態に対しても『気づている』という状態が、あなたが『大切にしたい想いを大切にしたい』という想いに寄り添う鍵となる。自身に対しても、他者に対しても。ね。そして、寄り添う・共感する在り方として、Non Violent Communication はヒントを示してくれるだろう。

3. 自分自身を観察すればするほど、「自分は何者なのか」を高解像度でより明確に気づくようになるだろう。

そして、『気づいている状態』には段階があることを認識する必要がある。たまねぎの芯のようなもので、剥き続けることでより真(芯)に近づいていく。まず視えてくるのは、顕在的な想いである可能性が高い。惑うことなく、観察し続けて、より深い潜在的な想いに近づいていく。忍耐強く見つめ続けていく先で、神々しい光に出逢うだろう。『大切にしたい想い』に真に気づいたよろこびに満ちた自身の笑顔に。

関連して、最近気づいたことがある。自分らしさとはなんだろう。という問いかけに対する答えである。その問いが浮かんだことはあるだろうか。もしくは、「いま、わたしは自分らしくない気がする」とぼんやりと感じたことがある方がピンとくるかもしれない。

自分らしくない、というのは、「自分が意識的に・無意識的に大切にしたいなにかを大切にしていない状態、もしくは、大切にすることがむずかしい状態」を指しているようにおもう。

4. 「自分」と表しているなにかとは、『意識的に・無意識的に大切にしたい想い』ではないだろうか。

要するに、自分らしさとは、「自分」と表しているなにかとは、『意識的に・無意識的に大切にしたい想い』なのではないだろうか。ゆえに、自分らしく在る、在りたいのであれば、真に『大切にしたい想い』に気づき、大切にする、大切にし続ける、そのために意識を向け続けることが鍵となるだろう。

すべての解は内にある。外を探している状態に気づいたら、『知足』に立ち返ってみるのはいかがだろうか。

懸命に内を見つめ続けていくと、「次の段階に進む準備が整ってきましたね」というように、真(芯)に近づく問いかけが舞い降りてくる。次の問いかけに向き合う中で気づいていくだろう。『大切にしたい想い』とはどのように形成されてきたのだろう。どれほどの程度で大切にしたいと想っているのだろう。と。

このように問いかけを丁寧に繊細に見つめていくと、解像度の高い「自分」という絵が鮮明に視えてくる。ひとつひとつの事象や深層、状態に意識を向けて、観察して、瞬間瞬間のありのままの「自分」を味わい尽くしながら生きている。微笑みが差し込み、慈愛に包まれたあたたかさを感じながら。

5. 「自分」とはなんだろう。

そもそも、「自分」という存在は、どのように在るのだろう。生きるとはどういう状態の上で生じている現象なんだろう。「肉体(身)」「心」「魂」はどのような関係だろうか。

「肉体(身)」とはなんだろう。

呼吸に意識を向けてみる。
呼吸を通して、心臓を中心に、血が全身を巡っている。
心臓に手を当てて耳を澄ませると、鼓動を感じる。
意識を向け続けていると、なにかに気づくかもしれない。
「肉体」は『魂が望むある目的』への旅路に
必要な役割を果たすためにあるのだろうと。
「肉体」の役割は、生物としての生命機能を果たすこと。
「肉体」はただの借り物の宿(箱)なのである。

「心」とはなんだろう。

「心」は『魂が望むある目的』への旅路に
必要な役割を果たすためにあるのだろう。
「心」の役割は、過去世、現世にて、
積み重なってきた滞りを浄化することではないだろうか。
宿の「肉体」を借りることで、意識や感覚、感情を通して活動している。
「心」と「肉体」は、言葉通りに、一心同体で密に関係し連動している。
ゆえに、「肉体」に痛みが生じると、「心」はそのサインを受けとって、
「心」的痛みを生じさせるのであろう。逆も然りでね。

「自分」とはなんだろう。

「自分」は『魂が望むある目的』のために、
「肉体」を借りて、「心」を通して、活動している、
電磁波を放つ素粒子の塊、素粒子の波動で形成された
エネルギー集合体であろう。
「自分」の対象となるカタチは、ヒトだけではなく、
植物も微生物も大型動物も昆虫も海藻もすべてが対象だろう。

「魂」とはなんだろう。

「魂」が「自分」の主である。
『魂が望むある目的』への旅路に必要な役割を果たすために、
「今世の状態(いまの浄化の段階)なら、
この機能をもつ宿を借りようね。」
と「魂」が判断した上で、各世において選択しているのだろう。
この判断の条件となる要素は、仏教にヒントがありそうね。
IKIGAI も魂がなにかを条件に判断して選択しているのだろう。
こちらに関しては改めて意識を向けてみよう。

6. 改めて、「自分」とはなんだろう。

より感覚的に表現すると、「自分」は何者でもなく、泡のような儚い存在であり、大いなる存在の一過程として存在している心地である。これまで輪廻転生を繰り返し何世代にも渡り、『ある目的』が達成される瞬間を待ち望んできたであろう「魂」は、内なる宇宙なのか、次世代の地球のような遥か彼方から、『無』の境地に溶け込もうと、この「自分」という存在が邁進している様子を眺めているような絵が視える。

『ある目的』が達成される瞬間とは、『解脱』であろう。これが『なぜ生きるのか』に対する、わたしなりの現時点での解。死が生に至るのはなぜか。今世に生を受けたのは、解脱をするため。そのように感じている。三十年前に植えた種が、ようやく芽を出しはじめたのかな。緑が茂り、花ひらくのが今世だといいなと願いながら。

7. 「『無』の境地」とはなんだろう。

生まれたときからアタリマエのように在るようにおもえている、時間や空間、重力、あらゆる物質、概念や程度が、まるで「存在する」という概念さえもないような、ただの状態なのではないだろうか。そのようにわたしは感じている。宇宙という言葉からは、広くて大きいなにかを想像しがちだったが、実は、宇宙は人が創造した虚像で、存在すらしないのではないだろうかとすら感じはじめている。解像度高く見つめていくと、時間も空間もとても曖昧な存在(条件)に感じはじめている。在るようでない。そんな感じだ。
実は、わたしたちはどこに存在しているのだろう。体感したもののみ信じるので、わからないものはわからない、だね。すべては内にあるのではないだろうか。内なる宇宙。『無』の境地は、すべてを包含した素粒子サイズのただの真っ黒な点のようななにかのように感じている。

8. 「地球」とはなんだろう。

関連して感じはじめてきたことがある。母なる大地「地球」についてだ。
「地球」も『ある目的』への旅路に必要な役割を果たすために、「今世の状態(いまの段階)なら、この機能をもつ宿を借りようね。」ということで在るように感じている存在なのかもしれないねって。「地球」はなぜ母なるという言葉で形容されているのか。誰がどういう想いで、母という言葉に意味を込めて表しているのか。わからないことはわからない。が、わたしなりの解釈は、無条件で子を愛し(支えてくれる)母のように、無条件でこの大地に存在しているすべての生物・無生物を愛し支えてくれている存在が「地球」なのだろう。この大地に存在しているすべての生物・無生物のそれぞれが、『ある目的』への旅路に必要な役割を果たすために集まり、そのために協力し合うことでしょう。「地球」に使命を与えているさらなる内の存在はなにかはわからない。魂の集合体かなにかではないかと思いを馳せている。

そして、未だ「地球」が抱える『ある目的』もわからない。それは、より浄化され、より平和な次世代の地球を築くためのもののような気がしている。「太陽」に関しても同様ななにかをおもいはじめている。またのお話にしよう。このすべての話がおとぎ話なのかもしれないね。

9. あなたはなにを信じていますか。確信していますか。

さて。どういう過程を経てきたことで、『なぜ生きるのか』という生涯かけての問いかけに対する、現時点における自身なりの解を確信できている状態に出逢えたのだろうか。この問いかけは生きていく上での鍵のひとつになると強く感じている。

どういう過程を経てきたか。その前に、ひとつ問いかけてみてください。あなたはなにを信じていますか。問いかけを明確にすると、あなたはどういう過程で、どの程度、特定の事象に対して確信しているか。

確信とは、確実に信じていること。信じている状態と確信している状態の差「確実さ」はなんだろう。要は、確実さに至るほど、信じている気がしていることを問いかけていますか。どれほどの程度ですか。

わたしは、確実さは、自信によって裏付けされると感じている。自信とは、自分への信頼。自分の行いへの信頼。自分への信頼は、自分の行動でのみ育まれると感じている。

「特定の事象に対する確信」は、その特定の事象に関連するなにかに対して、自分の行動によってこれまで育まれてきた「自分への信頼」の程度が高ければ高いほど、確実さを感じるだろう。

ちなみに。「あなたは自信があるもんね」という言葉を口にしたことがありますか。母が父に対して口にしているのを耳にして、違和感を覚えた。混合されがちに感じるので添えておくと、「特定の事象に対する確信」が強い人=自信がある人、ではない。

数学に自信がある人は、これまで数学に対する行動を積み重ねてきたことで育まれてきた確信で、数学に対する自分の行いへの信頼が高いかもしれない。だからといって、その人が複合的な要素で成り立つ「自分」に絶対的な自信があるということではない。地理に自信がない可能性があるように。

10. あなたはどういう過程で、どの程度、特定の事象に対して確信しているか。- 情報、知識、智慧

話を戻すと。あなたは、以下の中で、どの状態でのあなたの言葉を信じますか。

● あなたは、筋トレの情報をテレビや本で知った。
● あなたは、筋トレをしてみたいと感じた。調べてみると、筋トレすると頭がスッキリするし筋肉がつくしなんだか良さそうだという知識を得た。
● あなたは、筋トレを一度経験してみた、すると、心身が心地よくなった感覚がある。
● あなたは、筋トレを一か月継続して経験してみた、自分なりに試行錯誤して工夫をしたり、昨日より今日はこれができたり、その積み重ねで、心身が心地よくなっている感覚がある。

行動、特に継続した行動に対して、より信じるのではないだろうか。Information, knowledge, wisdom。 仏教用語だと、聞思修という言葉があるね。

わたしは、『経験』(精神的、心身的体感)だけを信じている。経験範囲を深め広げながら、認知や智慧を育み、いかなる選択にも確信をもって歩むことを意識している。ニュースや本、他者などの媒質を通して得た情報や、頭で考えただけの(行動を通して得られる経験が伴わない)知識は、(知った気になるのは容易でも)ストンと腑に落ちることがないゆえ、「自分」が確信する根幹にはなりえない。

たとえば、ようやく耳にする人が増えてきたマインドフルネスという言葉はわたしの中では、いまだによくわからない存在のままだ。それは、「マインドフルネス」という言葉を使っている人が、「マインドフルネス」の状態ではないような気がするからかもしれません。

11. Gautama Buddha はどれほど本を読んだだろうか。『知足』- 自分の外側ではなく、自分の「経験」に目を向けてみよう。

本を読むことが良い悪いという話をしているのではない。あくまでも読み(視)方が鍵になるという話。わたしも、心に宿っている種が芽生えたり、確信を強めるための栄養として補給することはある。

こちらの問いかけは、情報を受け取ったり本を読んだりすることよりも、体験がどれだけ大切なのか、そのヒントを与えてくれるかもしれません。Gautama Buddha はどれほど本を読んだだろうか。

行動に対して恐れを抱いている人へ。たとえ、行動したことで失敗に感じたことがあったとしても、大丈夫だよ。抱きしめてあげてね。その失敗と感じた経験を観察し続ければ続けるほど、なぜ失敗に感じたのかに気づくことができるでしょう。 どのようなことをしようとも、それを通して絶対に何かを学んでいます。無意識的にか意識的にかで。失敗など存在しない。すべてのこと、すべての過程に意味がある。いつか、これまでのすべての経験に感謝をする日がくるでしょう。

12. 観察を通して気づきに対する解像度を育む。滞りに気づき、浄化していく。

さて。改めて。どういう過程を経てきたことで、『なぜ生きるのか』という生涯かけての問いかけに対する、現時点における自身なりの解を確信できている状態に出逢えたのだろうか。この問いかけは生きていく上での鍵のひとつになると強く感じている。

頭から足先までの「自分」を形成する、全身の細胞ひとつひとつに対して繊細な観察を日々重ね続けることで、気づきに対する解像度がより育まれてきているように感じています。繊細に意識を研ぎ澄ませ観察し続ければするほど、細胞ひとつひとつの動きや表情が視えてくるように感じている。そして、さらに微細な細胞を形成している、ひとつひとつの素粒子の動きや表情が視えたり感じたりするように、すこしずつなってきている。

ひとつひとつの動きや表情を、その深層を、観察し、慈悲喜捨で満たしながら、ただ在ることを受け止める。この繰り返しをしている。朝目覚めた瞬間から、呼吸するたびに、足を地面につけるたびに、口を動かすたびに、意識を研ぎ澄ませながら行っている状態である。

これらの過程で、微細な滞りが心身に浸透・粘着している感覚に気づいていく。ひとつひとつの滞りは自我のかけらであろう。このように、意識を懸命に向け続けることを通して、滞りが浄化していく。細胞を形成している素粒子のひとつひとつが浄化し続けるにつれ、自我の透明度が高まっていく。要は、自我が解き放たれていく。そんな感覚がある。

13. 「自我」とはなんだろう。

もしかすると、「自我」とは、心身に浸透・粘着している、微細な滞りの集合体ではなかろうか。その滞りというのは、執着の化身ではなかろうか。執着があるという状態は、自分の内にある欲を満たすためにこだわる状態がある、ということではなかろうか。『大切にしたい』という想いも欲であろう。物質の状態に、良いも悪いもなく、欲にも、良いも悪いもない。そこにただ、なにかに執着している状態があるだけである。心身に浸透・粘着している滞りから解き放たれることが、自我から解き放たれていくことにつながるであろう。一点の曇りなく完全に澄み切っていくように、自我の透明度が高まっていくことを願っている。

心身を自我から解放してあげること、解放し続けてあげること、それが、解脱へ至る道だと感覚的に捉えている。これからは、さらに心身に意識を向け続け、今この瞬間を生きているなぁ、と体感する瞬間を丁寧に紡ぎながら、解脱への道を歩んでいく絵が視える。

14. どのような状態・条件で、上記の経験を積み重ねてきたのだろうか。

もう一度問いかける。どういう過程を経てきたことで、『なぜ生きるのか』という生涯かけての問いかけに対する、現時点における自身なりの解を確信できている状態に出逢えたのだろうか。要は、どのような状態・条件で、上記の経験を積み重ねてきたのだろうか。

鍵のひとつは、“自分, 自分の” という執着の手放し。

● 「便利で住み慣れた街、都心で暮らす自分」の手放し。
● 「部屋を所有している自分」の手放し。
● 「組織に属している自分」の手放し。
● 「物質に心を委ねている自分」の手放し。
● 「お金にとらわれている自分」の手放し。

「自分」の外で感謝している存在とはなんだろう。

● Earth, Water, Fire, Air, Ether - 「自分」が存在することを助けてくれている。
● Sun, Moon - 「自分」が存在することを助けてくれている。
● 人や物語 - 「自分」が何かに気づくのを助けてくれている。
● 箱(家)- 「自分」が雨や風などの外部環境の刺激を感じないように助けてくれている。
● 最低限の着るもの - 「自分」が何かを覆う上で助けてくれている。
● ヘッドホン - 「自分」が音や雑音を聴かないようにするのを助けてくれている。
● 端末やインターネット - 「自分」が人と連絡をとったり、メモを取ったりするのを助けてくれている。
● ダンボール - 机の代わりとして、「自分」が何かを書く上で助けてくれている。
● 明かり - 「自分」が暗い中でも活動するのを助けてくれている。

暮らしていく上で必要な物質とはなんだろう。

本来あまりないのだろう。Elegant Simplicity… すべての豊かさは「自分」の内にある。手放すことを通して、心身に浸透・粘着している滞りを浄化していく。

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鍵のひとつは、「自分」を構成している要素への意識。

シンプルである。

「自分」は何で構成されているか。

肉体、心(意識、感情)、経験によって育まれてきたなにか。徳や智慧、愛、平静さ、忍耐、など。肉体は、地球資源からいただいた、最低限の素材でできた、エネルギーで構成している。

● 果穀藻菜
● 白湯
● 重曹
● クエン酸
● セサミオイル
● 茶をたまにいただく。酒は飲まない。

これらの素材が、肉体という樽の中で、交ざったり発酵したりして、滞りを浄化してくれている感覚が強くある。言葉で伝わらないだろうが、心身が軽いのだ。体重ではなく、透明感というのかな。食を通して滞りを浄化していく。

毎朝している心身の浄化はこちら。

● セサミオイルで口うがいを十分
● 鼻うがい
● シャワーを浴びる前に、セサミオイルで全身マッサージ
(全身にふれて、心身を感じることを大切にしている)
● 最後に、全身水シャワーを一分
● シャンプーは重曹、リンスはクエン酸
● Yoga - Pranayama, Asana
● Meditation- Body Scan
● ちなみに、歯磨きは重曹のみで
● 食は、胃が空になってから
(起床後、六時間後くらいに口にする場合が多い)

より透明度を高めていくヒントを得るために、Ayurveda を学びに今年もインドへ行くだろう。

なにを食べていますか。Deep Ecology を意識しよう、Shadow Ecology ではなくね。

食に関して、追記しておくと。四年前に、ヒトという生き物が他生物と比べて優れているような立ち位置をとっている自身に気づいて、違和感を感じた。二十年強生きてきて、違和感やそれに対する問いかけが浮かばなかったほどには、無意識下で刷り込んでいたのだろう。その翌日から、Vegetarian となり、地球が抱えている資源や他の生物への尊重、他の生物がいてヒトが生きていられる持続可能な循環への感謝を想い、二年前から Vegan となっている。Shadow Ecology ではなく、Deep Ecology を。

“The first step to solve the problems of the world is to look at our plate. - Satish Kumar”

食とはなんだろう。エネルギーや波動に気づいていますか。

食は、素材とつくり手の、エネルギーや波動の集合体である。どのような素材をいただいているか。どのような心身の状態でつくっているか。そのコラボレーションなのである。

おなじ素材でつくっても、味が異なるように感じるのは、素材がもつ個性も関係はしているが、つくり手のエネルギーが異なっている可能性があるということに、意識を向けたい。

「あの日のあの料理は近づいてはいけない波動を感じました。」Vipassana での奉仕時に、繊細になっている生徒からいただいた言葉。意識を繊細に研ぎ澄ませている人は気づいていくだろう。食がもつエネルギーや波動に。
あなたはどれほど気づいていますか。そして、その波動やエネルギーをあなたの心身に取り込んだら、心身はどうなる、どうなっていっているとおもいますか。
わたしが料理をつくる上で、from scratch でつくったり、果穀藻菜のシンプルな素材の命のみを最低限いただいている理由である。

波動という存在の意味がわからない場合、、

『水は答えを知っている水は答えを知っている- 江本勝』という本がヒントを与えてくれるかもしれません。

たとえば。おなじ素材の水道水を入れた二つコップに、毎日、一方には「美しいね」と愛を込めて伝え、もう一方には「あほやな」と暴言を吐いたとします。おなじ素粒子、波動で構成されるとおもいますか。人を含めた全生物に対してもおなじことが言える気がしますよね。

鍵のひとつは、「自分」の内に意識を向けていること。

朝目覚めた瞬間から、呼吸するたびに、足を地面につけるたびに、口を動かすたびに、意識を研ぎ澄ませながら行っている状態である。

言い換えると、常に瞑想 (実際には集中) しているのかもしれない。わたしの経験では、瞑想というのは、『魂が望むある目的』、完全な解脱への旅路に向かうための、肉体と心が一体であることを体感する手段だと捉えている。

瞑想と集中には深さに違いがある。

The eight-fold path, The Yoga Sutra of Patanjali によると、瞑想 (Dhyana) は集中 (Dharana) の次の段階であるとされています。 つまり、集中することができた後にはじめて、ようやく本当に瞑想しようとすることができるということです。瞑想への道に至るには、かなりの訓練が必要である。

The eight-fold path, The Yoga Sutras of Patanjali とはなんだろう。

大変に深淵なセカイ(哲学)なので、すこしだけ基礎を触れてみますね。しばしば、 the eight-fold path と呼ばれている、それは、以下の要素で構成されています。(日本語だとしっくりこない感がありつつも、ご参考までに載せておきます。)

- yama, self-restraints 禁戒 (ahimsa, nonviolence 非暴力、不殺生, satya, truth and honesty 嘘をつかない, asteya, non-stealing 不盗, brahmacharya, nonlust 禁欲, aparigraha, nonpossessiveness 不貪)  
- niyama, self-observances 勧戒 (shauca, purification 清浄, santosha, contentment 知足, tapas, austerity, asceticism 苦行、自制, svadhyaya, self-study 読誦、学習, ishvara pranidhana, devotion 信仰) 
- asana
- pranayama
- pratyahara; dissociation of consciousness from the outside environment
- dharana, concentration
- dhyana, meditation
- samadhi, identification with pure consciousness 

Yoga の Asana の目的とはなんだろう。

多くの人が Yoga といえば動き (Asana) を想像するのではないでしょうか。一面として理解することは誤っていないかもしれません。しかし、我々は真の目的を理解する必要があります。わたしの理解では、ヨガとは、単に心身の健康のためだけのものではなく、瞑想の次の段階である、identification with pure consciousness に至るために、必要な手段である瞑想を続けるために、心身を柔軟にし、何時間でも微動だにせず動かない状態を保つための実践・訓練法である。Asana は Yoga が真に示す道への一過程にすぎないのです。肉体が動くと、意識(心)も無意識に動くからね。その瞬間、内側を深く観察していた状態が、その奥ではない方に向いてしまうよね。

Yoga は内なる宇宙への道である。

意識を向けることと意識を向けられる心身づくりを通して、滞りを浄化していく。

15. 今世にて可能な限り、解脱に近づいていく。

逝く瞬間に、生まれたての赤子だったときよりも、
心身の滞りが浄化されていいれば、
来世にて解脱に近づいていけるのかもしれないね。

関係ないが、逝ったあとは病院などの研究機関に献体したいとおもう。
肉体は借り物であり、必要な人がいるなら届けたいと願って。

16. 願い

それでは。『なぜ生きるのか』という問いかけが胸に響いた人が、これから、実践を通して経験を重ねていく上での情報になれば幸い。生きとし生けるものがみな、真にやすらかでありますように。滞りを浄化し、自我を手放し、自身から真に解き放たれますように。地球の片隅から一燈照隅の想いで、心からの愛と智慧、願いを込めて。

何者でもない、ただのエネルギーの集合体である、愛華より。


お気持ちを添えていただけたこと心よりうれしく想います。あなたの胸に想いが響いていたら幸いです。