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嫉妬

一番人間らしい感情だと思う。嫉妬。

最近、この扱いがほんとうに面倒だなぁと思う。「うらやましい」をそのまま「自分も頑張ろう」に素直に変換できる人間なんて一握りだと思ってる。

うらやましい、あの人はすごい、この人もすごい、みんなすごい。
それに比べてわたしはどうだ。何もない。人より秀でたものも、誇れるものも、何にもない。得意なことはあっても凡人の域を出ない。長所を聞かれると言葉に詰まる。

このご時世、世の中のいろんなことをネットで見られる。同年代の人たちの活躍が分かる。わたしは今年二十歳になる世代だ。いろんなところで趣味や仕事で自分の能力を生かして輝いている同世代がいるのに、私は親のすねをかじって大学に行かせてもらって、ただただ普通に大学に通うだけで精いっぱい。

自分の好きなことって何だろうな。得意なことって何だっけ。わたしは何がやりたくて生きている? わからない。

小さい頃は絵をかくのが本当に好きだった。幼稚園でも家でも、紙があればとりあえずクーピーとかペンとか持ってきて描いていたらしい。親戚の家で、広告の裏の白い面にひたすら落書きしていたのは覚えている。
でも小学校に上がって、クラスに自分より絵の上手い子を見つけて、自分は絵が下手なのか、と思った。そうしたら描かなくなって、描けなくなって、下手だから描きたくなくなって、嫌いになった。うらやましかった。休み時間にノートに絵をかいて、友達に褒められてたあの子が。そうやって好きなものを堂々と描けることが。

今は絵は諦めて、ご存知のとおり写真をやっている。おそらく今までの趣味で一番楽しいし、一番長続きしている。このまま続けていくのかは、分からない。

SNSがなかったとしたら(なくなったとしたら)、あなたは写真を続けるか。
そういう話題がTwitterのTLに流れていた。

「そんなの続けるに決まってる」
「Twitterより前から写真やってるんだからなくても変わらない」
なんて声が思ったより多くて、「そうなのか」と思った。

わたしは元々写真をやっていたわけではなくて、流れで作った雑多垢が写真垢に変身したタイプの人間だ(その後今のアカウントに移行した)。だから根本から違う。Twitterがなければ写真をやっていなかっただろうなと思う。そして、もしTwitterがなくなったら、少なくとも今撮っているような写真は撮らなくなるだろうと思う。

Twitterの方でも少し呟いたけれど、わたしは自分でもびっくりするほど飽きやすい。褒められないとなかなか続かない。写真という趣味が続いているのは、間違いなくTwitterやInstagramで貰ういいねやRTのおかげ(せい)だ。

もちろん写真を撮ること自体の楽しさを知らないわけじゃない。せっかく使ってきた大事なカメラだって無駄にしたくない。だから、写真そのものはやめないかもしれない。でも今のような「写真」はやめる。自分のためだけの記録、好きなものの蓄積、閉じた写真を撮るだろうな。それもいいのかもしれないなと最近思う。

閉じた写真は、伸びない。少なくともわたしのフォロワーにはなかなかウケない。一部、好いてくれる人もいるけど。
大部分の人は開いた写真(見た人が入り込む余地がある?写真)が好きだ。それか、流行っているタイプの写真。今で言うと何だろう、テーブルフォト、文字入れ、タップしろ系とかかな。ひょっとしたらもう古いのかもな。前はミニマル写真があほみたいに溢れかえっていたし(好きなので全然いいむしろウェルカム)、フィルム風レタッチが流行ることもあったし、移り変わりが早すぎて大変そうだなぁと思う。

わたしはこういう流行りに疎いので、「流行ってんのかな?」と思う頃にはみんなが少し飽き始めている。流行りを追いかける気にもならないから、それでバズったりもしない。「ほー、これ今みんな好きなんだなるほど」くらいの気持ちでTLを眺める。いいねやRTが何千何万とついて急成長していく相互さんを見てたまにちょっとモヤっとするところまでセット。別に人の事なんてどうでもいいはずなのに、結局気にしてしまうのが本当によくない。

他人のことなんてどうでもいいとか、いいねもらえなくたって別にいいとか、そういうこと言いつつバズってる人達がわたしはうらやましい。かっこつけてんなよと思う。
だって狙ってるやんそれ。ほんとにどうでもいいならそんな狙ったキャプションつけなくていいじゃん。写真伸びなくていいなら鍵かけとけや。って、思わなくもない。
でもそれを一番言われるべきは自分だから。いいねもRTもほしいしフォロワーだって増えたら嬉しいしたくさん褒められたい。なのにそれを努力で掴んだ他人にそんなこと言ってる自分が、わたしが、一番ださい。

この前ちょっとTLが荒れていた日があった。その時のわたしのツイート(もう消した)が、おそらくある人の地雷を踏み抜いた。
わかる人はわかるだろうが、努力をする人を意識高い系という括りで馬鹿にする人間のほうがださい、とその人は言っていた。多分わたしのことだろうなと思った。
別に馬鹿にするような意図はなかったんだけど、文字だけじゃそう見えても仕方がないのがTwitter。わたしが100悪い。けど、この場を借りて少し弁明をさせていただきたい。

わたしが揶揄する時に言う「意識高い人」というのは、目標をもってひたむきに努力を積み重ねる人達のことじゃない。その人たちを馬鹿にするつもりは全くない。むしろ尊敬に値すると思う。
じゃあ何なんだと言うと、その努力を他人に押し付ける人間が嫌いなんだわたしは。努力しない人間を見下して、努力する自分はすごいんだと、お前らとは違うと、そういう態度が行間に滲み出てくるような、そういう。
そういう人は、根はすごくいい人なんだと思う。知らんけど。正義感があるというか、自分の中にしっかり軸を持っているというか。だからそうじゃない人が許せないんじゃないか、きっと。知らんけどな。

本人たちに押しつけの意識があるのかないのかはわからない。お前が勝手にそう受け取ってるだけじゃないかと言われたらおしまいだ。被害妄想、自意識過剰って。

でもさ聞いてくれよ。
趣味で写真を撮っている人、仕事で写真を撮っている人、趣味が仕事になりかけている人。写真界隈にはたくさんの立ち位置の人がいる。わたしは完全に趣味だ。だから、仕事の人や仕事になりかけの人のストイックさが見ていてつらいのだ。押しつけるように見せられて、そんなことまで努力しなければいけないのかって、しんどくなる。
趣味でやってる人間からしたら、仕事でやってる人たちはみんな意識高く見えてしまうんだよ。だから努力の結果を発信するのは構わないから、せめてそれを振りかざすようなことはしないでくれと思ってしまう。ほんとに。立場の違いがあることを知らないはずない。だってそこまで成長するまでに見てきたはずなんだから。

見なけりゃいいだろって話なんだよな。でも見ないように対策はしてるんだ。でも入ってくるんだ。そういう人に限ってインフルエンサーだったりするんだよ。なんでだよ。

天才に凡人の気持ちはわからないってよく言う。だからって凡人同士が分かり合えるとは思えない。努力が報われる凡人に、努力の仕方もわからない凡人の気持ちがわかるわけない。わたしみたいな人間は、だから一生、嫉妬とかいう人間臭い感情を切り捨てられずにやっていくんだ。

自分の中に溜まった感情を昇華するための表現の手段なのに、逆にそれが原因でどす黒いものが溜まっていくんだから笑えるよな。ほんとうに厄介。

写真に関することに使います。フィルム代、撮影時の諸費用等。