弔うことと煙草と父

依存してしまう気がしていたから忌避していた煙草を吸うようになったのは、友人のプレゼントに買ったついでに好奇心で自分にも買ったという単純なきっかけだった。紅茶のフレーバーがTwitterでバズっていたのだ。コロナ禍でまだ渡せてないのだけど。

吸うのは2週間に1度くらい。親にはあまり知られたくないので誰もいない時にキッチンで。ゆっくりと焼けて出てくる灰の匂いで線香を思い出した。

祖母が死んだのは去年の初夏。鈍痛のように悲しみは一年ほど緩やかに続いている。色んなことで忙しく、ショックを受け止めきれないままダラダラと抱えている。

線香みたいな匂いで祖母のことを思い出したのだ。


有名俳優の自殺も私はまだ受け入れられてない。一番好きというわけではなかったが、彼が出ているミュージカルを観に行ったこともあった。なんとなくずっと芸能界で姿を見れるもんだと思ってた。彼のレギュラー番組を母が録画してあるのだが、見ることができない。この間、母が食事中に録画を再生して、「悲しいね、悲しいね。」と言っていた。私は何も言えなかった。そんなに簡単に悲しい出来事として終わらせようとする母親を少し疎ましく思ったりもした。


弔うことってどういうことなのだろう。ずっと考えている。ただなんとなく、その死を受け入れることが始まりなのかなと思う。我々は死を切り離すために葬式をするのかなと思う。死者の死後の安寧よりも私たちに死者との区切りを作ることを目的としているのかもしれない。

死を認める方法は人それぞれなのだと思う。母の受け入れ方だって、一つの方法なのだと思う。悲しい出来事の一つとして完結させるという方法。

私はどうやって弔うのだろう。たぶん弔い方に正解も不正解もない。死者によるし、その人との関係性によるのだろう。答えは一生をかけて探していくのだと思う。


煙草の匂いは父親の匂いでもあった。緩く禁煙と失敗を繰り返している父親。とても仲が悪いので随分と話をしていない父親。

父親はよくキッチンで煙草を吸っていた。禁煙に失敗したことがバレないように誰もいない時に。同じ場所で私が吸っていると、結局似た者同士なんだよなと苦笑してしまう。苦笑しながらも涙が出てくる。彼が死ぬ日に私は煙草を吸うのだろうか。煙草の匂いをさせながら頭を撫でてくれた彼の手を思い出して泣いたりするのだろうか。色んな想いを弔えるだろうか。あんまり自信がない。

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