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美咲さんの玉子かけごはん

大学生の頃、当時のおれよりも10歳くらい上だっただろうか。歳上の女の人が一人でやっている小さな居酒屋があった。美咲さんとみんなから呼ばれていたその女の人は、元々銀座の夜のお店で働いており、お店を辞めたタイミングで知り合いのオーナーから物件を借り受ける格好で長年の念願だったお店を始めたのだそうだ。おれがそこに通い始めたのは、大学で一番仲が良かったスズキが、同じく銀座の夜のお店でアルバイトをしていた縁で知り合い、ある晩スズキにそのお店に連れられてきたのがきっかけだった。

美咲さんはとにかくなんでも知っている物知りな人だった。音楽のこと、映画のこと、野球やサッカーのこと、相撲のこと、男女のこと、植物や虫、魚などにも詳しかった。それに留まらず、英語も中国語も喋れるパーフェクトな人だった。YMOのヤバさも、ビリージョエルの色気も美咲さんに教えてもらった。おれは何にも知らない20歳そこそこのつまらない男だった。なんでも知ってて色々なことを惜しまずに教えてくれる美咲さんと話すのはたいへん面白く、やがておれはそのお店に一人でも通うようになっていったのだった。

そのお店というのは、2,3のテーブル席と、5席ほどのカウンターがあるのみの本当に小さなお店だった。お店にやってくるのは、美咲さんの手腕で次々と手玉に取られた近所のおっさんばかり。いつもそれなりに客が入っていて、小さなお店なので当然客同士の仲もよく、その時居合わせた人々で夜が更けるまで酒を飲み、歌をうたい、明日には忘れるような話をしていたものだった。

おっさんたちは美咲さんにメロメロで、いつになったらデートをしてくれるんだとか、いっぺん抱かせてほしいとか厄介な絡み方をよくしていた。美咲さんはそんなおっさんたちを見事にいなし、夜も更けておっさんたちがフラフラと家路についたのち、おっさんの相手は疲れると言いながら、焼酎の水割りをあおるのが常だった。当時冴えない文系大学生をやっていたおれとスズキは基本的にニコニコとおとなしくグラスを傾けるだけの面白くない飲み方をしていた。厄介なおっさんで埋まる小さなお店の中で一等おとなしい我々が目に留まったのか、単純に若者が珍しかったのか、美咲さんはおれたちのことをとても可愛がってくれた。また、群馬の田舎から出てきたばかりの当時のおれにとって、なんでも教えてくれる美咲さんはたいそう甘え甲斐のある女性で、そのうち必然、美咲さんは田舎から出てきたばかりのおれにとっての東京の母、もとい姉のような存在になっていった。もちろん教養のない田舎者の話などその日学校であったこととか、気になる女の子の話とかそんな程度だったが、そんな話でも美咲さんは「いいなあさんしちゃんたちは楽しそうで、あたしは大学に行けなかったからなあ」と言って笑いながら聞いてくれたのだった。

当時貧乏学生だったおれはそのお店を訪れる時、500円の席料を払うのがどうしてももったいないように感じ、美咲さんがピースの煙草を吸っていることを知っていた喫煙者のおれは、当時背伸びして美咲さんの真似をして吸っていたピースを5本、席料がわりに差し出してお店に居座るようなどうしようもない学生であった。そんな席料すらケチるような、大して利益にならない貧乏学生でも、「いつか出世したらたんまりお金を取る」と、ゆるい運用を許し、優しく受け入れる度量が美咲さんにはあった。

とにかくおれはそのお店でずいぶん多くの時間を過ごしたし、それにまつわるエピソードには事欠かないのだが、ひとつ印象的な出来事がある。酒に酔ったおっさんがお店で揉めごとを起こしたとき、連れのおっさんが「ごめんな美咲さん、こいつ酒飲んでるから」と言ったときに、「酒飲んでるときに見せる姿がその人の本当の姿なんだよ、だから酔ってるからとかは通らないんだよ!」と、毅然と言ってのけたときは、さすが日々酒飲みを相手にしてきた美咲さんが言うと説得力が段違いだぜ、と痺れたものだったが、のちに美咲さんは「Twitterで上記の趣旨のツイートがバズっていたから拝借した」と嘯いていた。そんなチャーミングさが、美咲さんのお店にたくさんの人が集まる理由なのかもしれないな、などと思ったりしたものだった。

初めてスズキに連れられてそのお店を訪れたとき、おれの郷里の温泉街にあるとある小さなストリップ劇場に行ったときのエピソードを喋ったらそれを美咲さんがえらく気に入ってくれ、おれが一人でそのお店を訪れたときは、そのエピソードをあることないことないまぜにしながら落語のように繰り返しその日居合わせたおっさんたちに披露し、ひと笑いかっさらうというのがまあだいたいいつもの感じであった。

おれは元来お喋りな性質で、ウケを狙ってあることないことベラベラと喋るような人間で、酒の席では愉快な話を捲し立てるだけでそれなりに楽しく振る舞えたのだが、日常、大学では言わなくてもいい余計な一言をついつい言ってしまうし、田舎由来の口の荒さによる失敗も多く、またそれをその日のうちにカバーする要領すら持ち合わせていないような学生だった。日中、あることないこと適当に喋り、余計な一言で友人となんだか気まずい感じになってしまい、あわあわとしているうちに陽が落ちて、夜にはたいてい気持ちが沈んだ状態という毎日を過ごしていた。とにかく、当時のおれは災いばかりが出てくる口をしているのに、そのくせ人一倍他人の目を気にしてしまうような救いようのない大学生だった。

いつだったか、その日もおれは一人で美咲さんのお店を訪れていた。その日もおれは失敗をしてしまって非常に落ち込んでいた。当時、あまりに同じような失敗が多かったのでどんな失敗だったのかは今となっては詳しく思い出せないが、まあ上記のような調子で友人と仲を違えたのか何かだったのだろう。とにかくおれはダウナーな気持ちで戸を開けてお店に入った。まだ客が入らない時間だったのか店には美咲さんがひとり、テレビを見ていた。適当にビールやつまみを頼み、やがて美咲さんがカウンターごしにビールとつまみを渡してくれた。おれは不貞腐れた顔でそれらを口にする。美咲さんは、テレビで音楽番組を眺めていた。おれも黙ってそうしていた。テレビではいつかのロックフェスで電気グルーヴが「虹」を披露していたときの映像が流れていたのを覚えている。おれはその時、たいへんに落ち込んでいたので一言も喋らずただぼんやりと綺麗な音楽ときらきらと光る照明を眺めていた。

しかし、テレビを見ていると、やがてミキサーか何かDJが使う音楽器材を絶え間なく弄り音楽にノッている石野卓球に対し、ただステージ上をウロウロするだけのピエール瀧の所在のなさというか、その類のなにかがおれには辛く感じられた。なにか大きな野望を抱いて田舎を出てきたはずだったのに、つまらないことで友人と仲を違えてしまったことに落ち込む自分、せっかく友人と築いた関係をだめにしてしまい、都会に居場所がないような気持ちが湧いてきて、そんなおれがそのときのピエール瀧となんだか重なってしまい、それでおれは堪えきれなかったのだろうと思う。涙を流していたのだろうと思う。過去にお店を訪れてオイオイと泣くおっさんがいた。その時美咲さんが「大の男がメソメソしているんじゃないよ」と一喝する光景を目の当たりにしていたので美咲さんの前では泣いてはいけないんだな、と分かってはいたはずだったのだが、つまり、それほどその時のおれは参ってしまっていたんだろうな、と思う。

美咲さんは、そんなおれを見て、ふいと店の裏に入っていった。ああ、呆れられてしまったかと思っていると、やがて美咲さんは裏から出てきて、おれに一杯の玉子かけごはんを手渡し、おれの目を見てこう言った。

「さんしちゃんね、何だか分からないけど大丈夫だから。あんたはあたしが見込んだ男なんだからね。」

その後は美咲さんは何も喋らず、おれが差し出したピースをプカプカと吸っているばかりであった。

なんてことない、特別な味付けなど何もない、シンプルな玉子かけごはん。しかし、一口食べた途端に、手が止まらなくなる。ああおれはおなかが空いていたんだな、と思う。おれは涙を流しながら嗚咽まじりに玉子かけごはんをかきこみ、そのうち金を払ってお店を出てその日は家路についた。

やがておれは大学を卒業し、就職をして、転職もして、紆余曲折ありつつもなんとか今も東京で暮らしている。その後もあの夜のことはなんだかずっと覚えていて、次に美咲さんに会ったときには、あのころ美咲さんが見込んでくれたおれのままで、いや、それよりも多少ナイスな男になっていたいと思って日々を過ごしてきた。また、社会にそれなりに揉まれたことで言っていいことと悪いことの分別も多少ついてきたのか、ずいぶん人間関係における失敗も少なくなり、日々機嫌良く過ごしている。それでも、気分が落ち込むことがあったり、もうだめだおしまいだ、おれごときが、等と考えて眠れなくなる夜がたまにはある。そんな時、脳裏には美咲さんの「大丈夫だから。あたしが見込んだ男なんだから」という言葉が浮かぶ。チャーミングで人たらしな美咲さんの言うことだから、あれはリップサービスだったのではと思わないでもないが、あのときのなんてことない玉子かけごはんの味が浮かんでは、なんだか美咲さんのことばを真に受けたりなどしている自分がいる。あることないこと喋るだけのおれがあのお店で美咲さんの目にどう映っていたのか、またあのことばが真実だったのかどうか分からないし、今となっては確かめるすべはないのだが、とにかく、あの夜、あのお店で、おれは美咲さんに救われたのだな、と思う。

そのお店は、それからほどなくして閉店し、美咲さんも故郷の秋田に帰ったと、のちに人づてに聞いた。話を聞く限りでは、あの夜にはもう既に店を閉める予定を立てていた計算になる。美咲さんはどんな気持ちで涙を流すおれに玉子かけごはんを差し出したのだろうか。美咲さんのお店も、あの玉子かけごはんの味も、今となっては思い出のほかには何も残っていない。そんな感じです。

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