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#STEAM化ごんぎつね 現地調査その1

念願かなって、「ごんぎつねの聖地」愛知県半田市に行ってきました。

まずは、新美南吉記念館へ。

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ネタバレになるので、館内の写真は控えます(笑)
ぜひ、安全と健康にご留意され、ご来館ください。


今回のおよその行程は、こんな感じでした。
(追跡機能を使わなかったので、実際に歩いた場所とは、一部かけ離れます。さらにあちこち写真を撮ったり、出会った地元の方々にお話を聞いていたりしたので、所要時間は2時間半程度でした)

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半田市の岩滑(やなべ)地区+阿久比町の植村地区、まさに、ごんぎつねや、新美南吉の聖地ですよ。
「ごんぎつね」に描かれている地域、こんな感じの景観かぁ、という印象でしたが、ごんぎつねの時代観に最も近しいであろう最も古い地形図(明治23年測量)と、現在の景観を見比べますと、本当に都市化が進展していまい「ごんぎつね」に描かれたような里山の風景は、残滓程度にしか残っていないのも事実です。

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(大正9年測図の地形図と、ごんぎつね関連の場所)

埼玉大学の谷先生が構築・運用されている「今昔マップ」というサイトで、半田地域は、「明治23年」「大正9年」測図の地形図が閲覧可能です。
地図好きの方は、おそらくご存知で、ハマるサイトです。

現地調査へ行くと、Google Map などではわからない起伏がわかります。
現在は、土地造成が行われていて、ごんのいた頃や明治や大正時代とは、少し標高が異なっています。

さて、「ごんぎつね」の中に出てくる、「城」について。
現地調査以前から気になっていたんです。

むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。

の出だしは、ごんの住処を特定する意味での「城」の立地を記しています。
この「中山」ですが、現在の新美南吉記念館のあるあたりに「あった」と
されるお城です。
中山刑部大輔(五郎左衛門)勝時という、織田信長に属した「お殿様」
(っても土豪だけど)のお城だったそうです。
だけどね、城っていうと、みなさんのイメージは、姫路城とか犬山城とか、石垣+天守閣!みたいなものを想像するでしょ?
中山勝時さん、石高で言えば、1000石あるかないかくらいの家臣です。
国宝になっているような石垣完備、堀完備、天守閣完備のような城ではなく、むしろ「館」に近かったのかなと。

「平野部における中世居館と灌漑水利-在地領主と中世村落- 」という論文が参考になります。


でも、信長に属していた土豪といえど、「館」の周りには集落もないとは不可思議千万です。城跡や集落の形跡、地形図上では全く見つからないです。
"中山城"については、半田市史ほか資料をWeb以外で探しました(中山城+半田市で検索しましたが、全くソースがないご説明ばかり)が、証拠となるような文献も見つからず、かつ、発掘調査などをした形跡もなく。

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  (新美南吉記念館に併設の童話の森の看板にも記してあります)


 中山城があったとされる付近の新美南吉記念館。その北側の東西に伸びる丘陵地を越えて、知多半島の東側の常滑へ行く昔の横断道路を大野街道といい(新美南吉の「おぢいさんのランプ」の主人公の巳之助が人力車の先綱曳きをしたり、ランプの仕入れのために往復したりした道)、そこへの見張りのための番屋なりくらいがあったのを、「城」として口伝されたのかもしれませんね、と善意の解釈。

 続いての「城」の記述。

ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠く向うには、お城の屋根瓦が光っています

 第二段落の兵十氏御母堂の葬儀のシーンの記述です。この六地蔵のある墓地は確定で、現在は共同墓地として六地蔵ごと移転されていますが、兵十氏の御母堂の墓地として間違いはないことでしょう。

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(授業などで著作権フリーでご使用いただいても構いません)

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(新美南吉の墓碑)

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(六地蔵+α 本物)

さて、その墓地から、光る屋根瓦が見えるか?ということですが、国土地理院の「地理院地図」で現在の標高データですが、断面図を作ってみました。


A.岩滑城跡(現在、常福院という浄土宗の寺院)
B.中山城跡(現在、新美南吉記念館周辺)
で、地形断面図を作成すると、一目瞭然。
Aは、墓地から直線距離にして、約340m
Bは、墓地から直線距離にして、約1000m
という位置関係になります。

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Bの断面図からは、稜線がやはり邪魔をしてしまい、墓地跡から仰角で見ても、中山城の構造物が、15-20m以上の高さを持たないと、屋根を見ることは見えません。
「ごん」の視点を地上高25cm、兵十氏の視点を地上高150cmと仮定しても、やっぱり難しかろうなと。
 墓地跡は、現在は公民館の駐車場となっていて、街中で建造物も多く、現在は岩滑城跡の寺院=常福院の屋根を見ることはできませんでした。
 常福院の北側から、約250m程の距離で屋根を撮ると、見事に白光りしています。

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さらに、権現山山頂まで約800mの写真をもってすれば、家屋の屋根が光ってるな、くらいの感じで、瓦が光っているというような認識は、肉眼では物理的に不可能だと思います。

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ですので、第一段落と第二段落で出てきた「城」は別のものと捉えた方が合理的解釈となることでしょう。

第四段落にもお城が出てきます。

中山さまのお城の下を通ってすこしいくと、細い道の向うから、だれか来るようです


 ここの記述ですが、中山さまのお城を「A:岩滑」だとすると、「下」というのは「南」を意味して、岩滑城の南側は集落内なので、お坊さんが夜にも関わらず、吉兵衛さん宅に経を読みに行くことも可能でしょう。木魚叩いて、浄土宗とも合致します。
「B:中山」だとすると、岩滑の西側にある岩滑新田(北組)まで、岩滑集落から1.8km。岩滑から中山まで約1km。
 沿道に家とか集落なんざ、全くない大野街道(当時)の場所です。いくら月夜でも、片道半里(約2km)の田舎道を歩いて往復するのはあり得ないでしょうね。
 でもね、岩滑=中山さまのお城、だと、後に述べる岩滑城跡に建つ常福院は建立されていないことになり、木魚を叩く寺がなくなっちゃうんですよね。複雑。
 ってか、めちゃくちゃ位置関係 × 時代考証が雑

さすが、フィクション、ごんぎつね!

 鈴木三重吉の雑な修正の影響なんでしょうかね?
 新美南吉は、草稿で、

 むかし、徳川様が世をお治めになっていられた頃に、中山に小さなお城
あって、中山様というお殿さまが少しの家来とすんでいられました。
 その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました

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(半田市立岩滑小学校のWebページに残されている新美南吉直筆草稿)

って記述したのでしょうが、徳川様の時代には、中山さまは既にいないんですよね、岩滑村に。

 ちなみに、半田市誌に掲載されている「尾張侚行記」(1800年前後の記述)によると「中山さまの小さなお城」である岩滑城は、22間×18間
(約40m×18m)の広さであったそうな。
 城ってよりも「館」ですな、やっぱり。

国語と地理と歴史、算数/数学の融合ですね、これ。
お次は歴史単体。

 元和の一国一城令で、確実に岩滑城(城ってより「館」だもんなぁ…城の対象にすらならなかったんじゃ?)は解体されたであろうわけですが。
この常福院が曲者です。開山説が2説あります。
 岩滑城の跡地に、

1)永禄2年(1559年)に創立された古い寺で、開基は元岩滑城主の中山刊部大輔勝時が城跡に自からの菩提寺として建立された説(お寺の縁起)
2)中山氏(たぶん分家筋を中心とした一族)により延宝3年(1676年)に   建立された説(寛文覚書)

 ですので、「光る城の屋根瓦」の記述を素直に考えれば、「ごんぎつね」は、火縄銃伝来から、「岩滑城」が存在した時期(寺が建立される前〜1676年)までの時代が舞台の話となっちゃうわけですが。

 江戸時代前半までの話となると、兵十氏の「さつまいものような赤い顔」の記述は、やっぱり無理がありますけどね。
 鈴木三重吉だろうが、新美南吉だろうが、だんだん、時代考証が無茶苦茶になってきたな、ごんぎつね!と、現地調査+半田市史のおかげでわかったことは、

❶ 中山城は幻の城。ごんぎつねの中だけの城。
❷ 実は時代考証めちゃくちゃ。やっぱり、フィクション!

 描写の正確性を期するならば、第二段落の記述は、
"城跡の寺の屋根瓦が光っています"
 なんでしょうね。

 技術史的に「光る屋根瓦」を考えると、土や焼物、太陽光の反射など、STEAM化にできる素材ですね。理科は当然、図工や美術も入りますよね。

 と、国語・算数・理科・社会を、教科横断したら、こんな感じになりましたとさ。

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