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東京と地球に、私は住みたい。

この文章は、panasonicとnoteで開催する「 #どこでも住めるとしたら 」コンテストの参考作品として主催者の依頼により書いたものです。

少し前の冬の出来事。東京から車で3時間ほどの雪山に出かけた帰りしな、道端にカモシカを見かけた。凛と冷える空気の中、足元には澄んだ小川が流れ、枯れた木々の間からは光が降り注ぐ。静寂。そのなかに姿勢よく佇むカモシカがいた。じっとこちらを見ていた。カモシカの立ち姿も、周りの自然も、ただただ美しかった。

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「幸せ」ってなんだろう。

一つ、それは社会的な、人間としての幸せだと思う。クラスで良い成績を残す。好きな洋服を身に着ける。仕事で成功する。愛する家族と、温かい家庭を築く。世代や個人によってもちろん異なる形はあるけれど、きっとこれらが一般的に「幸せ」と呼ばれているもの。そこには必ず「相手」がいる。人間と人間が絡み合う関係性の中で見出される、社会的な幸せ。

もちろん、この幸せは重要なものだと思う。私たちの心に平穏と温かさをもたらしてくれる。

一方、幸せにはもう一つの形があると思う。それは、動物としての幸せである。

自然は、厳しい。食べ物が取れなくても、怪我をしても、獲物として捕らえられても、すぐそこに死が存在する。リスクの高い自然に対し、私たち人間は死というリスクから最大限離れた場所、都市で暮らしている。

しかし、常に物事には表裏がある。死という大きなリスクを負う自然界にも、私たちが受け取る何かがあるはず。そう考えた先に思い浮かんだ言葉は「美」であった。

朝靄がオレンジに染まる海の中を泳ぐ時。雪に覆われ、シンと静まり返った白い大地を歩く時。暗闇の中に浮かぶ無数の星々を見あげる時。自然界には常に、清々しい「美」が存在する。

自然の中にある美しさは、誰にでも平等である。成績や所得、成功しているか否かなんて関係ない。海に行けば波は立ち、朝になれば日が昇る。誰かとの関係性から生まれるものではなく、 すでにそこにあるもの。その美しさに触れ、時にその風景の一部としている自分という存在を知覚するとき、私は動物として、もう一つの理由のない「幸せ」を感じる。

あの日出会ったカモシカも、そして他の数々の動物たちも、常にその美の中で過ごしている。 動物たちはもしかしたら私たちと同じように、この地球の持つ美しさに日々感動しているのではないか。草を食む馬は、海を泳ぐ鯨は、寝食をしていない時、周りに広がる美しい風景を眺めて幸せを感じているのではないか。

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私は、この二つの幸せをなんとか両立していきたいと思う。

都市で頑張ってみんなに褒められたり、自分の好きなことを表現したり、誰かの役に立つこと。誰かを幸せにすること。そうやって人間として、人と人の間での幸せを見出していきたい。

都市とは、東京である。世界の都市が画一化され、インターネットで繋がり、どこにいても誰とでも会話できる今、東京は社会との繋がりの中で生きていく拠点としては十分だと思う。むしろこんなにご飯が美味しく酒が飲め、何でも買えて、良い音楽を聞ける。しかも治安が良いとくる東京は、 自分が住む一つ目のお気に入りの家。

そして同時に、自然としての大きな地球を二つ目の家として住んでいきたい。山に繰り返し通ううち、山椒の木々を見分けられるようになる。海に繰り返し通ううち、風の吹く方角がわかるようになる。こうして自然を知覚する感度を高めていくことで海の近く、山の中で生活を営めるようになり、随所に隠れる美しさに少しずつ気が付いていく。


海は、山は、場所によって大きく異なる。一見⻘く見える海は地域によってその⻘の深さを異にし、生える木々は高度によってその表情を変える。砂漠の渇きがあるかと思えば、湿地の潤いもある。だから東京の対になるもう一つの家は、場所としての点ではなく、地球という面にまるごと住んでいきたいと思う。

東京に拠点を置きながら、世界中の自然の中に繰り返し通う生活。短い一度の人生だからこそ、人間としての幸せと動物としての幸せの両方を、十分に味わっていきたい。

さて、どうやったらこの二つを同時に達成できるのか。

その答えがずっと無かった。だから私たちは、都市生活の傍ら地球に住むための装置、SANU を作ったのだ。

ホテルの未来を考える。toco./Nui./Len/CITANを手がけるBackpackers' Japan代表、本間貴裕のノート。