小泉今日子は、いつだって100%だ
小泉今日子
「100%」
ときどき、彼女が死んだあとの世界のことを考える。蓮実重彦や村上龍や森高千里や前田敦子らについては思わないから、それはきっと彼女が私と同学年だからなのだろう。叶うことなら、自分より先に死なないでほしい。
たとえばそんな思い込みが過ぎるファンを彼女は数多く抱えている。何度かインタビューする機会に恵まれた人間として断言するが、彼女は常に小泉今日子であることを引き受けている。小泉今日子として問われ、小泉今日子として返す。そうした循環を生きることが宇宙の摂理と化している。その人間的な無理を超えた(ように映る)当たり前の有様は、もはや勝新太郎さえ凌駕している。
約四年ぶりとなったこのシングル曲も多様な解釈を受け入れる。詞世界を額面通りに捉えれば「私がオバサンになっても」に対する二十年後の返答、つまり「オバサンがオバアチャンになっても愛してくれる?」と問いかけるタフでラフで純粋無垢な超合金のごときラブソングだ。だが私たちは「なんてったってアイドル」で脱構築とポストモダンの時代を生き抜いた彼女を知っている。だから「十年後もゆるして/可愛い私でいさせて」と歌われるとき、それが小泉今日子という客体=メディアをめぐる自己批評であり、オーディエンスに対する総括的メッセージとして読み解く自由を容認するのだ。さらにこれは二十一世紀を生きる女性特有の鬱を描写している可能性もある。「どんどん落ちてく/どんどん溶けてく」というリフレインは、不在の恋人への架空の(あるいは妄想の)想いが渦巻いているようにも聴こえる。個人的には、四十代の女の子が十代の女の子として歌う(最終盤で「五十年後もキスして」というフレーズが飛び出す)超絶的ミラクルの具現化にこそこの歌い手の真骨頂を見るが、いずれにせよ小泉今日子は、ひとびとの想いの100%を受けて立つのである。
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